研究会で京都に行ってきました。
京都は碁盤の目のように道がまっすぐです。両側にビルをはさんでずうぅっと向こうまで見通せます。この点ではニューヨークのマンハッタンと一緒です。違う点の一つが、その向こうにみえる風景です。マンハッタンでは空が見えます。だから摩天楼はSkyscraperと表現されます。scraperとは表面の付着物をこそげ落とすための、へらのような工具のことです。たしかに空が摩天楼によって削られているように見えます。
京都では道の向こうに見えるのは山でした。盆地ですからね。春の日差しに照らされた山の色合いが、街並を穏やかな風景にしてくれているように思いました。
宿泊したホテルでは「密教学会」なる学会の理事会懇親会が開かれていました。学会というのは知識の共有を目的とするものだと思っていたけれど、「密教」と「学会」って素人的には新鮮な組み合わせのように思いました。
思い返してみれば、宗教は学問でもあったのですね。随分前に岩波新書の「玄奘三蔵」を呼んだことを思い出しました。西遊記のモデルにもなった玄奘三蔵は真理追究のためインドまで赴いたのでした。
西洋においても科学は神学から分枝したものだと聞いたことがあります。
そんなことをつらつら思っていたら、随分前の記憶がよみがえってきました。学生時代の頃です。当時僕は、高校の先輩に、「神は本当に存在するのか?」と事あるごとに食ってかかっていました。その先輩は、そのとき、神学大学の学生でした。今は、韓国で牧師をされています。
なんで僕がそんなことを言っていたのか、今でもよくわかりません。でも、その先輩とそういう話をすることが、当時の青臭い僕にとって、とても大切なことのように思っていたのは覚えています。
真面目な先輩はヘブライ語とかを勉強していたような気がします。
見たこともないような文字を勉強しているのを見て僕が驚く一方で、先輩は僕が持っている教科書を見て
「難しい漢字がいっぱいだ!」
と驚いていました。僕は心の中で
「日本語で医学を勉強するのとヘブライ語で神学を勉強するのと、どっちが難しいと思ってんだよ。」
と笑っていました。
その先輩との議論では、
「神学という学問は、過去2000年にわたって何が真実であるのかについて、考えてきた学問なんだよ。」
と言われ、真面目なんだけど、壮大で、どこか煙に巻いたような議論を延々と聞かされた気がします。
「『神の存在を直接証明できない事』や『自分たちに不都合な現実』をもって神が存在しない事の証明にはなり得ない」
とか、
「自分の信じる社会正義実現のために神を用いてはならない」
とか、そんなことを言っていたような気がします。
結局のところ、積極的な存在証明ではなかったためか、当時の議論は納得した想いを得られずにいつの間にか終了してしまいました。議論には買ったわけでも、負けたわけでもありません。結論もよくわかりません。そのまま20年以上が経って、今はそれでよかったのかな、と思っています。
目的があって、あるいは、自分の都合で、宗教を信じる、頼るということには違和感を感じます。自分として納得できません。人から言われて思いを変えるものではないと思うので、「信じなさい」といわれると、天の邪鬼な僕は信じたくなくなります。
かといって、優柔不断な僕は無神論を支持する程の強い気持ちもなく、『いなければこそ神を信ずる』と言い切る程の気持ちは更になく、「あいまいな日本の私」のままでいます。
我ながら本当に日和見だなぁ、と思いますが、どちらつかずの状態が僕には居心地よく感じられるのです。
神さまがいても、いなくても平穏であることがいちばん。
そんなこと言っていられない状況も多々あるのでしょうが、ゴメンナサイ、今は正直、そう思ってしまうのです。
ひとりでつらつらと、そんなことを想いながら京都の夜をすごしてきました。
11月のセントラルパークは紅葉していた。こちらに住む人たちの話では、例年ほど鮮やかではないと言う。でも、やっぱりセントラルパークの風景は特別だ。大きな岩に登ってみたり、子供達が遊んだプレイグラウンドに入ると、記憶がフラッシュバックしてくる。
97丁目のセントラルパークの西側には僕たちの住んでいたVAUX CONDOMINIUMがかつてと同じように立っていた。その15階(13階がないので正確には14階)に僕たちは2年8ヶ月ほど住んでいた。建物の入り口から中をのぞくと、中に立っていたオバサンもかつてと同じだった。僕たちのことはもう覚えていないかも知れないけれど。
娘が生まれる数週間前、ニューヨークを大停電が襲った。丸二日近く、電気が止まってしまった。あの停電の日、ヒゲのドアマンのオジサンが、身重の妻を15階まで懐中電灯で道案内して連れて行ってくれた。彼も、また同じように仕事をしているのだろうか。
近くは再開発が進み、子供の誕生日祝いにヘリウムガスを入れた風船を買いにいった100円ショップみたいなお店はなくなって、新しい建物が建っていた。
セントラルパークの西側をもう少し南に80丁目くらいまで下るとアメリカ自然史博物館がある。僕たちが最も足しげく通ったところの一つだ。
アメリカ自然史博物館には折り紙部門というのがあるらしく、毎年、折り紙がツリーなどでフィーチャーされる。僕たちの部屋の大家さんはそのメンバーだと言っていた。
彼はユダヤ系の人だったけれど、折り紙の本も出していた。一冊もらったので見ながら作ってみようと思ったけど難しくてできなかった。僕は日本人だったよね?再確認したくなった。
アメリカ自然史博物館では数多くの動物の剥製を一年中見ることができる。月の石も展示されている。でも僕たちが一番通ったのは4階の化石のフロアだ。当時と比較してレイアウトは若干変わっていたし、メリルスストリープがナレーションをする進化についてのショートムービーは上映されていなかったけれど、そこにいる恐竜たちは基本的に何の変わりもなかった。ティラノサウルス、アロサウルス、ブロントサウルス、ステゴサウルス、トリケラトプス、プロトケラトプス、イグアノドン、パキケファロサウルス、ヴェロキラプトルなどなどなど。他にも翼竜、魚竜、巨大なほ乳類の化石もたっくさん。いやぁ、懐かしいねぇ、久しぶりだねぇ。子供達より僕が大興奮していた。予想されたことだけど。この博物館で、子供より親が興奮している親子連れはそう珍しくないと思う。
セントラルパークの南端まで降りていくと、その東側、5番街と59丁目の交わるところにアップルストアがある。iPhoneのネット接続を制限していた僕にとって、アップルストアのFree Wifiは有り難かった。
そのまま南に下って53丁目、5番街と6番街の間にはニューヨーク近代美術館(MoMA)。僕らがいた頃、2004年くらいまでは今のビルに建築中でMoMAはクイーンズにあった。そこでやっていたピカソ・マチス展は大人気で時間制のチケットを手に入れるのも大変だった。なんとか購入し、実験のスケジュールをやりくりして平日の昼間に見に行った。二人の天才の互いの影響を見ることができて、とても興味深かった。どんなに「独創的」に見えても、一から十まで「独創的」なんてものは多分ありえないんだね。そんなことを思ったのを覚えている。そう言う企画展だけでなく、常設展示にも教科書に載るような絵がずらりと並ぶ。ゴッホ、ダリ、ピカソ、マチス、モンドリアンなどなど。あぁ、やっぱりイイものはイイねぇ。じっくり鑑賞する余裕がないのが本当に残念だった。
51丁目にはロックフェラーセンターがある。毎年12月になると大きなクリスマスツリーが飾られる冬のマンハッタンの名所だ。この季節は毎年野外スケートリンクがオープンする。映画でも使われたりしている。娘がスケートを習っていることもあり、是非滑ろうとやってきた。理由はわからないけれど、その日は残念ながらクローズしていた。看板は出ていたのに、、、。しかたない。
マンハッタンの野外スケートはここだけではない。後2カ所。一カ所はセントラルパークのウォールマン・リンク。セントラルパークの東側、63丁目あたり。もう一カ所はブライアントパーク。こちらは僕たちがいた頃はやってなかった。多分。僕たちは空港に行く数十分前に時間を作ってウォールマンリンクでちょっとだけスケートを楽しんだ。もうここまで来るとほとんど意地ですね。
僕たちが帰ってからしばらくして、ブライアントパークのスケートリンクで発砲事件のニュースが飛び込んできた。いや、さすがニューヨーク、なんて感心している場合ではない。僕たちがいた時には何もなくて本当に良かった。海外旅行では特に注意が必要だと改めて思った。事件に遭われた方々にはお見舞い申し上げます。
さらに南下してブロードウェイと42丁目の交差点がタイムズスクエア。子供がいると夜の愉しみはそれなりに制限されるけれど、ミュージカルなら演目を選べば家族で楽しめる。僕たちはオペラ座の怪人、WICKEDを楽しんだ。改めて英語を勉強しなければと強く感じさせられた。(今回の旅行はこればっかりだ。)
そして34丁目まで降りてくると6番街と7番街の間にデパートの老舗、MACY'sがある。時間がなかった僕たちはここの地下に降りてパンを買って食事とした。「老舗」って言ったって、子供達にはだだっ広いデパートでしかない。でも、エスカレーターに乗ったとき、「老舗」を驚きとともに実感していた。ここにはステップも手すりも木でできているエスカレーターがあるのだ。これは一見の価値があるような気がしている。ずっと壊れないでいてほしい。
そしてMACY’sを左手に見ながらグングンと東に向かって歩いていくと右側にそびえ立つのはEmpire State Building。
かつて展望台まで上がったとき、最上階でエレベーターがとまってしまった。ガタンと言ったまま、全然動かない。みんなが顔を見合わせざわついてきたとき、長男がドアの向こう側に光がみえることに気がついた。最終的にはドアの近くにいた僕を含む男性4人ほどでドアをこじ開けた。エレベーターは床から15センチくらい下がったところでとまっていた。それを見て、みんな慌てて降りたのだった。
今回はそのようなトラブルもなく、平日の夜だったこともあり、すんなり登ることができた。ロックフェラーセンターの展望台、TOP OF THE ROCKにも昼間にのぼったけれど、昼間はどこを見ているのかのオリエンテーションがつけやすい。でも、マンハッタンの夜景はまた格別だ。眼下のブロードウェイやタイムズスクエアの明かりからは人々の活力が光となって感じられるように思った。
さらに南にはワールドトレードセンターがある。かつてツインタワーがそびえ立っていたところだ。
スコットから僕の留学受け入れ承認の電子メールが届いたのは2001年9月7日金曜日だった。むちゃくちゃ喜んだ数日後、9月11日の惨劇が起こった。確かよる10時か11時ころ義父から電話が入った。
「ニューヨークが燃えてるぞ。」
その後、1ヶ月ほどはスコットとも連絡が取れなくなってしまった。
僕たちはそれから約3ヶ月後の12月に渡米した。まだ、心の傷が生々しい時だった。
だから、それを体験していない僕たちなんかがグラウンドゼロに近づいていいんだろうか?という気持ちがあった。でも一応New Yorkに住ませてもらってるし、亡くなった人を追悼するつもりで「グラウンドゼロ」を訪れた。曇天の寒い1月の週末だったと思う。
周囲のビルにはまだ黒こげのものもあり、その真ん中に巨大な空間がポカンと広がっていた。
見学のために作られた木製のステージが作られていて、見学者は並んで順番にその空間と対峙していった。みな言葉少なく、やけに静かだったような気がしている。
白木がむき出しのステージには思い思いの落書きがされていた。
I survived. So will the USA! Mark
という落書きが脳裏に焼きついている。マークさんは今でも何処かで頑張っていることだろう。
今はエンパイアステートビルより高い、新しい建物の建設が進んでいる。名前はワン・ワールド・トレード・センターというのだそうだ。
その南のバッテリーパークから僕たちは自由の女神のあるリバティアイランドにわたった。中に入るのには前もって予約しておく必要があるため、僕らは音声ツアーで外から見学をして帰ってきた。
2日ほどの間、僕たちはむさぼるようにニューヨークを堪能した。まだまだ、まだまだやりたいこと、行きたいところがあったけれど、これが精一杯だった。
やり残したこと、行きたかったところを備忘録的に記しておくとこんな感じ。
食べ物
Silver Moon Bakery : (Broadway 104丁目) :周辺のお店よりちょっと高いけど、 ここのパンは美味しい。デニッシュなどは絶品だと思う。もう一度食べたい。
Absolute Bagels : (Broadway 107丁目と108丁目の間) : スコットいちおしのベーグル屋さん。「もし本当にベストのベーグルを食べたいならここに行け」と言われた。是非一度。
Sarabeth’s : 最近日本にも出店している名店。ジャムも美味しい。初めてSarabeth’s`でランチを食べたとき、ハンバーガーを頼んだ。ビルディングみたいに背の高い、縦横比を間違えたような、漫画に出てくるようなハンバーガーが印象的だった。
Cosi : チェーン店。自家製パンがおいしい。
Le pan quotidian : こちらもチェーン店。僕たちがいた頃より随分多くなった。なんとか時間を見つけて店に飛び込み、ルバーブのジャムだけ買ってきた。一度ゆっくり座ってお茶したい。
Cafe laro : ユーガットメールで使われた喫茶店。ベタだけど、何度も行った。子供の誕生会のケーキもここで調達したことがある。予想よりだいぶ小さくて、パーティ直前にもう一個買いに行ったっけ。
Peter Luger steak house : 濃縮した赤み肉の旨味を感じ、アメリカのステーキもおいしいぞ、と思わせてくれた。ただブルックリンにあるのでとても足を伸ばすことはできなかった。
CUBA: (音が出ます): 一緒に働いていた友人のホーへ(Georgeをスペイン語読みするとそうなるらしい。本当かどうか確かめていないけど。)がサイドビジネスとしてやっているお店。研究室の送別会をここで開いていただいた。モヒートが秀逸。
Saigon grill : 当時大人気だったベトナム料理屋さん。安くて美味しくて量が多い。出前もやっていたので結構頻繁に食べていたと思う。今回、再訪する予定だったけれど、残念ながらしばらく前に閉店してしまったらしい。僕にとっては幻の名店。インターネット上のHPはまだ見られるようだ。復活を切に願う。
音楽:
子供と一緒だとなかなか難しいけれど、次に訪れる時にはこのどれか一つくらいには行きたい。
Smoke Jazz & Supper Club : (Broadway 105丁目と106丁目の間)勢いのある若者のセッションが楽しめる。最初に教えてくれたのはFL君だった。
Blue Note : ベタだけど、留学中に一番多く行ったのは結局ここだった。
Jazz at Lincoln Center/Dissy's Club:Wynton Marsalisが監修している。こけら落としのイベントでカサンドラ・ウイルソンを聞きにいって、2時間近く待たされたのがトラウマに近い記憶となって残っている。Jazzクラブというよりはコンサートホールの様な印象。
Carnegie Hall : ニューヨークフィルの本拠地Lincoln Center よりもずっと足しげく通った。僕たちが行った時は、土曜日午前中に翌週のチケットを10ドルで購入できた。ボストン交響楽団、ミュンヘン交響楽団、ロンドン交響楽団、ベルリンフィルなどを堪能できた。ウィーンフィルだけは売り切れだった。また、壁に貼ってあるアーティストたちの写真、サインには歴史を感じる。
それから、ニューヨークジャズフェスティバルでハービーハンコックを聞きに行ったとき、チケットを間違えて購入していたことが判明した。その時、座席のない僕たちに対する、支配人の粋な対応には今でも感謝している。
Lincoln center:お金と時間に余裕があれば、やっぱりメトロポリタンオペラも見たい。
美術;絵画鑑賞には、今回はMoMAしか行けなかった。MoMAも含め、本当は半日くらいかけてゆったり楽しみたい。
Guggenheim美術館 : 建物も秀逸。
Metropolitan美術館 : 巨大。半日でも足りない。中でも、エジプト館の青いカバ、ウイリアム君との面会を是非。ウイリアムは、メトロポリタン美術館のマスコットとなっている。マルファン症候群の原因遺伝子を発見したフランシスコ・ラミレッツ博士から、ミュージアムショップで売っているウイリアムのブックマークをいただいたのが、今の僕の物語の始まりだと思っている。だからその思い入れはとても強いのだ。
その他
Brooklyn bridge : 鋼製ワイヤーを用いた最初の吊り橋。Manhattanから歩いてBrooklynにわたれる。6月頃の天気のいい日にはとっても気持ちいい。そしてイーストリバー越しに眺めるマンハッタンは格別。
友人達との再会
本当に時間がなかったのに平日の昼間にもかかわらず、ちょっとだけでも会っていただいた方々には感謝の言葉もない。もっとゆっくり時間を取ってお会いできる日を楽しみにしております。
いろいろ並べてみて、改めて、思った。こんなにいっぱいできるわけないね。全部、再々訪の理由として、僕の中で、あらためて想いを熟成させていく事になるのだろう。
しかも、ニューヨークの魅力はこれだけじゃない。僕が全然ふれなかったところも、僕たちが全く経験していないところもまだまだたくさんある。今度は仕事がらみではなくもっとゆっくり訪れたいものだ。
あらためて、奥が深いぞニューヨーク。数日だけでは全く足りない。
通常このブログでは友人名はイニシャル、ニックネームなどで書いているけれど、この日の登場人物であるBigMan二人は実名で書かせていただいた。話は主として仕事のことだから。ちょっとした宣伝的意味合いも含めて。
FL君との再会から一夜明けて、NYC訪問の最大の口実が待ち受けていた。それはScott L. Friedman教授の表敬訪問だ。アポイントは前もってとっておいた。
僕は2001年12月から2005年8月までマンハッタンにあるマウントサイナイ医科大学のFriedman研究室に留学した。
留学して初めて挨拶に訪れたとき、直立不動の僕を見て教授は僕に語りかけた。
「きみの国の習慣は知っている。でもここは米国だ。ここではもっとリラックスしていい。今日から、きみの仕事はサイエンスだけではない。米国の文化、英語を学ぶこともきみの仕事だ。だから私のことをスコットと呼んでくれ。きみのことはなんて呼んだらいい?」
以来、僕はスコットからノブと呼ばれている。ニューヨークの有名和食レストランと同じ名前だ。
スコットは肝臓病の領域では大物の一人だ。慢性の肝臓病を長く患うと、肝臓が硬くなる。これを線維化と言う。1980年代くらいまでは、線維化の「線維」をつくるのは肝臓を「肝臓」として機能させている「肝細胞」だと思われていた。でも実はその間にいる星細胞という、肝細胞とは別の細胞が「線維」をつくるということがわかった。
この星細胞が線維をつくるということは、今では常識なのだけれど、スコットをはじめとする人たちの研究によって、過去の常識は今の常識に書き換えられた。そんな研究をやってきた人だ。スコットはこれまで数多くの賞を受賞し、2009年には米国肝臓学会の会長をつとめた。
でも、大変気さくな人柄で誰とでも偉ぶることなく話をする。研究室のミーティングで彼が言っていた。
「家族の中で兄貴はクレバーガイ。オレはグッドガイと呼ばれてたんだ。」
クレバーガイのお兄さんはロックフェラー大学の教授をしている。レプチンという肥満の原因遺伝子を発見し、毎年ノーベル賞候補に挙げられている。まったく、とんでもない兄弟だ。
そのスコットに
「招待講演をお願いしてきてほしい。」
と今の僕のボス、伊東教授から言われた。これが今回渡米の最大のミッションだ。
2年後の日本DDS学会の学術集会で会長を伊東教授がやることとなった。その関係でスコットに白羽の矢がたった。
ちなみに肝臓で線維をつくる星細胞は、伊東細胞という名も持っている。Friedman教授と伊東教授は浅からぬ縁で結ばれているらしい。その間を取り持つのが僕ならばそれは何とも光栄な役割を与えていただいたものだと思う。
そんなわけで、こころなしか、この日は朝から緊張気味。まぁ、箸を正しく使えて、普段のランチでも寿司を食べるくらい日本好きな人だし、無下に断るってことはないと思うけど、何しろ忙しい人だ。12月31日の夜まで働いている。スケジュールが空いていないかも知れない。
日本からは秘密兵器を持ってきた。これが奏効してくれることを祈って研究室に向かった。
建物の前まで来た。さて、どうやって中に入ろうか。こちらはセキュリティチェックが厳しいので、中には簡単に入れてもらえない。警備員にアポイントメントがあることを伝え、確認してもらわねばならない。昨晩改めて感じたが、今の僕の英語は我ながらひどいもんだ。もともとひどいだけでなく、耳も発音もさびつきまくっている。つくづく、言葉ってのは道具なんだなぁ、と思う。
それにしてもめんどくさいなぁ。
そんなことを思っていると、入り口で、 MBさんとばったりであった。当時一緒に働いた女医さんだ。彼女と一緒なら簡単に建物に入れる。すんなり11階の研究室へ。幸先いいぞ。
スコットの部屋の場所は以前と変わりないと聞いている。入り口で秘書さんに確認した。スコットはミーティング中だという。 この秘書さんは初対面だ。顔立ちからするとラテン系か、、、。
「もしかしてEさん?僕ノブって言うんだけど、、、。」
実は今でもフリードマン研究室の研究ミーティングの演題を毎週知らせてもらっている。そのメールの差し出し主がEさんだった。
「わぉ、私あなたの名前知ってる!初めまして!!」
急にフレンドリーな感じになって、ただ待つのも居心地が良くなった。
そこへ席を外していたLさんが戻ってきた。僕がいた頃から働いていたアフリカ系の秘書さん。すごく大きい。横方向に。彼女がとても懐かしげにビッグハグをしてくれた。
互いの子供達の成長を語り、つい最近のことのように思うけど、子供がそれだけ大きくなるんだもんね、随分時間が経ったんだね。なんて話をしていると、今度はそこに実験助手のMさんが通りかかった。
アフリカ系と中国系のハーフの彼女も僕がいた頃から働いている。彼女は働き始めた当時、英語が苦手だった。会話のスピードが僕と同レベルだったのでお互いよく話したものだった。満面の笑みで握手してくれた。英会話は圧倒的な差がついてしまったけれど、笑顔は以前のままだった。
Mさんはコーヒーを入れてくれた。なんかどんどん居心地が良くなっていく。
そんな感じで待っていると、いよいよドアがあいて、スコットが出てきた。
よく来たね。まずは研究室に行こう。
と、研究室を案内してくれた。机と実験台が並んでいる。基本的に当時と変わらない。一番大きく変わったのは壁に貼り付けられたパネルの数。スコットはメンバーが研究室を去る時、記念に名前入りのパネルを額に入れて贈呈してくれる。そして、その人が使っていたデスクの横の壁に同じパネルを貼っていく。僕がいた頃は各デスクに1〜2枚程度だった。今では片手で収まらないほどだ。
「お前のパネルもちゃんとここにあるぞ。今でもメンバーなんだ。」
そんなこと言われるとなんか感動しちゃうなぁ。出来の悪い僕なのに。
そして、研究室のメンバーに紹介してくれた。日本を含め、スペイン、オーストラリアなど、世界中から留学生がきている。殆どの人たちは一緒に働いたことはないけれど、学会などで顔をあわせて紹介してもらった人もいる。
スコットは僕を「ニューヨークベーグルと恋に堕ちた男」として紹介してくれた。確かにその通りではある。僕は毎日ベーグルばかり食べていた。一年のうち300日くらいはベーグルを食べていただろう。
以前の紹介文句は「キングコング松井のさよなら満塁ホームランを見逃した男」だった。研究室みんなでヤンキースタジアムに行った試合で、松井秀喜選手がサヨナラホームランを打った。その試合、子供連れだった僕たちは9回表に帰ってしまったのだった。それにしてもスコットはキングコングとゴジラの産地がわかっていないらしい。おたくの国にとっての舶来はゴジラでしょう?
一通り懐かしい研究室見て回り、スコットの部屋に戻って話し始めた。
とりあえずは近況報告。まずは仕事の話。そして現在、僕たちの聖マリアンナの研究室からスコットの研究室に現在留学中の仲間の仕事の話。大変頑張って仕事をしているらしい。スコットは満足してくれていた。紹介した僕としても嬉しかった。
そして家族の話。僕たちはスコット主催のパーティなどに家族連れで参加した。だから妻も息子も娘のこともスコットはよく知っている。1年ちょっと前にスコットが娘さん、息子さん、そのガールフレンドと4人で東京に来た時も、僕たち4人と食事をした。
そんなわけで、長男が今年の春に中学校に合格した話もした。
いよいよここで秘密兵器の出番だ。
実は今年の春、長男の合格祝いで九州旅行をした。その時、太宰府天満宮にお参りをしたのだけれど、そこでスコットの名前入りの塗り箸を作ってもらったのだ。それをお土産に持ってきた。学問の神さまを祭った神社のお土産だ。彼にはぴったりだと思っている。
スコットは大変喜んでくれた。部屋を出て秘書さん達に見せてまわるはしゃぎよう。そして丁寧に自室の棚に飾ってくれた。
しかし残念ながら、その時、太宰府天満宮とか、菅原道真とか、学問の神さまとかいったことはどうでも良くなっていたような気がする。 予習していったつもりなのだけれど、僕のたどたどしい説明なんかより「手作りの名前入り塗り箸」という事実の方が圧倒的にインパクトがあった。
もっと英語を勉強しないとなぁ、、、。
ここでようやく本題に入る。実は今のボス、伊東教授が2年後の日本DDS学会会長を務めるにあたり、特別講演をスコットにお願いしたいと言っている。了解していただけるだろうか。
「オーケイ。実は来年2回、日本に呼ばれているんだけれど、2年後7月のスケジュールを空けるからEさんにメールで知らせといてくれ。」
ありがたや、ありがたや。本題の話は1分で終わってしまった。その後、前出の同僚と仕事のディスカッションをした。彼の仕事も着実に前に進んでいた。興味深い結果もあり先が楽しみだ。
僕も、少しずつでもイイから、しっかりと前に進まないと行けない。そう思いつつ、肩の荷が軽くなったことを実感してFriedman研究室を後にしたのだった。
2013年11月、ワシントンでの学会参加ののち、僕たちはNew York CityのJohn F. Kennedy国際空港におりたった。
2001年から2005年にかけて3年8ヶ月にわたり、僕たちはマンハッタンで暮らしていた。この間、最初は3人だった家族が4人に増えた。5歳で帰国した息子にはうっすらと記憶があるようだけれど、娘は殆ど覚えていないようだ。そりゃそうだ。僕たちが帰国したとき彼女はまだ2歳だった。
今や子供たちも成長し、少しずつ自分の世界を形成しつつある。家族4人で当時を振り返る旅ができるのは、これが最後かもしれない。そうい思いから、学会参加ともう一つの仕事の用事を口実に、家族全員での渡米をし、マンハッタンに寄り道することに決めた。
僕たちは数十時間という短い時間で過去を再体験したいと考えていた。
JFK国際空港からイエローキャブでマンハッタンに向かう。当時はほとんどが巨大なアメ車(フォードのクラウン・ヴィクトリア)だったけれど、車種が随分と増え、日本車のイエローキャブも多く見られた。新車も多い。一方で、システムそのものは変わりない。渋滞もあいかわらず。荒い運転も相変わらず。醸し出されてくる空気感は変わっていなかった。
そこから八年間の空白を埋めるかのような、慌ただしいニューヨーク再訪が始まった。
宿泊したのは、Hotel Beacon。場所はアッパーウエスト地区、ブロードウェイの75丁目。地下鉄の72丁目駅のすぐ近く。ミッドタウンやロウワーマンハッタンには地下鉄で行ける。急行も止まるので、LocalとかExpressとか考えなくていいのがいい。しかも、アッパーイースト地区とはバスでつながっている。東西の移動も楽だ。
隣のBeacon theaterではニューヨーク・ジャズ・フェスティバルで、初めてWynton Marsalisを聴いた。2002年の夏だったと思う。伝統を大切にし、計算されつくしたツヤのあるアンサンブルが印象的だった。
Hotel Beaconの近くにはスーパーマーケットが数多くある。目の前にFairway Market、Citallela(シタレラ)。目の前のFairway Marketはニューヨークで人気のスーパー。新鮮な果物がいつも店頭に並んでいる。隣のCitallelaは高級食材店。以前、ドイツ人のFLくんがサンクスギビングのホームパーティで彼のハーレムの自宅に招待してくれた時、ここで買った鹿肉をステーキにして出してくれた。
もうちょっと北の80丁目にはZabar’s(ゼイバーズ)。僕たちが足しげく通ったのはこのZabar’s。ここは映画「ユー・ガット・メール」にも出てくる。僕たちは最初から決めていた。滞在中のホテルの部屋での食事はここで調達するのだ。チェックイン後、休む間も無くZabar'sへと向かった。
Zabar’sでは一階が食材売り場、二階がキッチン用品の売り場となっている。コーヒーメーカーのChemex(ケメックス)を知り、購入したのはここの二階だった。
知らないおじいさんに
「オマエはコーヒードリンカーか?だったらこれが良いぞ。オレはこれを30年使っているが、とても使いやすい。一度だけ落としたら割れてしまって買い替えたがね。」
とか言われて購入した。ケメックスは今でも使っている。朝のコーヒーを入れる必須アイテムだ。
一階では美味しい食材が手に入る。 Zabar'sブランドのコーヒーも美味しい(と思う)。お土産に買って帰りたいものの一つだ。他に当時よく購入していた記憶があるのはベーグル、クロワッサン、ジャム、コーヒー、ソーセージ、サーモン、チーズ、オリーブ、クリームチーズスプレッド、ハマス(豆をゆがいてペースト状にしたものに、ゴマのペーストやオリーブオイルなどを混ぜたペースト。ピタなどに塗って食べたり、ディップに使う。)などなどなど。
僕が留学していた研究室のボスは研究室のミーティングでは毎回ベーグルを買ってきてくれた。みんなで食べながら研究ミーティングが行われるのだが、特別な日にはZabar’sで購入した食べ物がテーブルに並んだ。
「美味しい!」
と声をあげる僕たちを見て、ボスは
「これがREAL FOODだ。」
と自慢げにうなずいていた。
なつかしのZabar'sに入る。レイアウトも店の雰囲気も以前と一緒だ。入ってすぐのところには、様々なオリーブの量り売りのコーナー。そしてその右側にはフレッシュチーズの量り売り。
それらの香りが渾然一体となって独特の空気を醸成する。店に入ったとたん、子供が叫んだ。
「この匂い覚えてる!」
そうそう、この匂いですよ。パブロフの犬よろしく、唾液が口の中に溢れ出る。
嬉しくて嬉しくて、店の中を何回もウロウロとまわってしまう。
結局、オリーブ、ベーグル、クロワッサン、クリームチーズスプレッド、ジャム、ピーナッツバター(甘くないもの。これとジャムを一緒に塗って食べると、とっても美味しい)、コーシェのソーセージ(コーシェとは、ユダヤ教の人達が食べる宗教的手続きを経たものなのだけれど、食べれば普通のソーセージ。ただ、僕たちの好みのソーセージを作るメーカーがそうだった。)、ブルーコーンのトルティーヤチップス、オレンジジュースなどを購入した。
もっと長居したかったが、あまりのんびりしている余裕はない。この後、以前からの友人FL君の自宅を訪問する事になっているのだ。FL君について書いた記事はこちら。
彼はかつてハーレム地区に住んでいたけれど、今はブルックリン地区にすんでいる。自宅住所とそこまでの行き方はメールで教えてもらった。地下鉄を乗り継いで最寄り駅へ。そこはかつてポーランド人が多くすんでいたところらしい。意味不明の看板をちらほらと目にする。その多くはポーランド語だとのことだった。
ここで彼の家にたどり着くのにはiPhoneが大活躍した。自分の位置情報と地図をリアルタイムで見ることができるのは大変ありがたい。比較的すんなり住所の建物に行き着いた。インターホンを押すのにはちょっと緊張したけれど、スピーカーの向こうからは
「Hey, Hey, Hey, Nice to come here!」
という懐かしい声が聞こえてきた。モニタもないのに僕だって確認しなくていいのかい?でも、待っててくれたってことだね。ありがたい。
FL君はドイツ人だが、ジャマイカ人のLさんと結婚した。二年ほど前に二人で東京に来た時には西麻布の権八に行って楽しい時をすごした。そして昨年、二人の間に新しい家族が誕生した。会ってみると本当に二人の特徴を備えた女の子。ようやく歩き出したところらしく、とても活発。高級外車と同じ名前で日本人からするとなんともゴージャスだ。彼女は不意の外国人訪問に少し驚いた様子だったが、そこは生まれながらのニューヨーカー。人種の違いなど、全く気にならないようだった。
赤ちゃんと奥様に別れを告げ、FL君は僕たちを食事に連れて行ってくれた。ここがまた、不思議な店だった。FL君は地中海料理のような説明をしてくれた。YelpをみるとFrench bistroとなっている。Fadaと言う名のレストラン。
http://www.yelp.com/biz/fada-brooklyn
入り口から入ると、レストランは薄暗く、入ってすぐのところがダンスホールになっている。その周りにテーブルが配され、三々五々、男女が立ち上がり、タンゴを踊っていた。
地中海?フレンチビストロ??
それ以前に、子供連れの僕たちが入っていんだろうか、、、、。そんなちょっと退廃的な、アンニュイな雰囲気。お店のお姉さんは何事もないかのように案内してくれる。僕たちは踊るカップルたちをよけながらダンスホールを抜けて、その奥に入っていった。奥はサンルームのようなガラス張りの屋根の開放的なテーブルスペースだった。たしかにここなら家族連れでも安心してくつろげる。
メニューにあったのはアンガスビーフのハンバーガーとか、ビーフタルタルステーキとか。さすがにSUSHIはなかったけれど、結構イロイロあったように思う。僕が食べたサーモンも美味しかった。
そんなおいしい食事に舌鼓を打ちながら、FL君と近況報告で旧交を温めた。数年前、FL君はサイエンティストから法律家に転身した。会社のHPには背広を着たカッコイイ写真付きで紹介されている。彼は最近スペインに別荘を購入したという。何とも華麗な転身だ。妻の横で話を聞きながらなんとなく肩身が狭い気がした。気のせいだといいのだが、、。
かなり流暢なドイツ語なまりの英語と、彼の知性と想像力に依存した片言の英語による楽しい会話はいつの間にか深夜近くになってしまい、子供達の疲れもピークに達しているようだった。
昔より安全になったとはいえここはNew York。もうろうとした子供達を連れての深夜の街歩きはなるべく避けたい。
FLに近くのカーサービスを教えてもらい、車でホテルまで戻ることにした。気がついたらFL君が料金まで支払ってくれていた。大変恐縮してその日を終えたのだった。
慌ただしかった訪米も終わりが近づき、帰りの飛行機のチェックインとなりました。ジョンFケネディ空港でチケットのチェックインです。
家族4人で席をまとめてもらおうと、カウンターでチェックインしようとしました。すると、エージェントの女性は「機械でできるのよ。」パスポートをヒョイっととって、機械のところまで行きます。
そして4人分のチェックインを全部やってくれました。英語がマズかったのかなぁ、、と思いながら、とりあえず、ありがとうと言ってやってもらいました。
感謝はしたけれど、不安が募ります。
彼女、一人ずつチェックインしてるんですが、機械のモニタに寄りかかり、雑談しながら、画面とか全然見てないんです、、、。
彼女のお腹の横から垣間見える画面には、確かに座席指定の画面がありました。でも彼女は全く頓着することがありませんでした。子供がいるのは一目瞭然だし、(恐らくは)好意でチェックインしてくれてるのに途中で待てとも言えず、不安なまま彼女を見つめていました。
最後は4枚のチケットを席の確認もせず、誇らしげに手渡してくれました。
確認すると、二人は隣ですが、残りはバラバラです。これは困ります。
チケットを見せて、家族だし子供もいるのでまとめてくれと言うと、彼女はここで初めて驚いた顔をして、ここではできないから搭乗ゲートで頼めと言います。いやいや、、、
はじめから丁寧にやってればできたと思うよ。多分、、、
できたのに、できなくしたのはあなたですよ。多分、、、
だけど、あなたはできることを知らないんだよね。多分、、、
そして、あなたは好意でやってくれたんだよね。多分、、、
あぁ、もうもとにはもどれない、、、。
最悪の場合は、子供2人をまとめて座らせるしかないか、、、。
この状況を知った子供たちは、14時間のフライトを前に、もう泣きそうです。そりゃマァそうだよね。
改めて考えてみても、エージェントの彼女に悪気がなかったのは明らかですし、状況をうすうす感じつつ最後まで黙ってた自分にも何となくひけ目があり、文句を言うのはやめました。
最後は直接交渉しかないと腹をくくり、搭乗ゲートで頼むと、後方の座席ですが、1人を除いて、なんとか3人まとまった席を確保してくれました。ありがたや。
でも、僕だけ1人ですわっているのもさみしいので、一人旅の方に直接交渉して席をかわっていただきました。かわってくださったお方には感謝感謝です。
黒川温泉は熊本県阿蘇郡小国町にある、山間の小さな温泉郷です。僕たちは子どもたちの春休みに、桜の咲き始めた早春の黒川温泉を訪れました。
僕たちの宿「樹やしき」は、黒川温泉の温泉街からちょっとはなれた、本当に山の中の宿でした。このため、部屋、露天風呂にはこんな文言が掲示されていました。
『わたくし共の樹やしきは自然の中に佇んでいます。この季節は小さな虫さんたちも、くつろぎたいのかお部屋に遊びにくることもございます。あみ戸はなるべく開けないよう、ご協力お願い致します。』
『大自然の中にある露天風呂です。虫さんも葉っぱさんもこの温泉が大好きです。時折ご一緒しているようですので、仲良くしてあげてください。尚、ハチさんとアブさんには十分お気をつけ下さい。』
まだ早春で虫さんたちと遭遇することはありませんでしたが、こんな文章からも豊かな自然に抱かれた癒し系の時の流れが演出されます。
黒川温泉の「豊かさ」を象徴するのはその自然だけではありません。なによりも、源泉の豊かさであろうと思います。僕たちは一泊しただけでしたが、宿の「樹やしき」では、全ての風呂が源泉掛け流しでした。そして、風呂ごとに源泉が異なるため、風呂ごとに湯質が違っているのです。部屋風呂、家族風呂、大浴場、さらには離れと食事処をつなぐ道筋にも温泉が湧いています。
竹筒からチョロチョロと流れ出る温泉は飲用可能とのことで、横に柄杓がそえられています。硫黄の匂いや、酸味など、明らかな違いがあって、お湯の違いを楽しむことができます。
渓流沿いに立ち並ぶ黒川温泉街では、それぞれの温泉宿で源泉が異なっているので、湯巡りをすると、それぞれの宿の風呂の違いだけでなく、湯質の違いも楽しめるとのことでした。樹やしきから温泉街までは車で送迎していただけます。
僕たちは残念ながら、湯めぐりする時間的余裕がなかったので、ぶらぶらとそぞろ歩きだけして温泉街を楽しみました。道はきれいに舗装されています。玉砂利なんかが埋め込まれたりして温泉街らしさが演出されています。道幅はとてもこじんまりとしています。宿泊者の車が一台通るために、歩行者が店の軒先に入ってよけねばならないほどです。
その狭い道幅と風情のある和風の建物群、硫黄の匂いが「温泉街」の雰囲気を醸し出します。
そして、静かななかに微かに聞こえる渓流のせせらぎ、道行く人のざわめき、軒から顔を出していた家猫。
それらは他の場所でも経験できるもののはずです。なのに、ここでは温泉街らしい雰囲気演出に一役買っているように感じるから不思議です。
土産物屋では、今や日本を代表するゆるキャラとなったクマモンが強烈なインパクトを放っていましたが、クマモン以外の黒川温泉郷ならではのお土産も頑張っていました。思わず応援しちゃったりして。
また、ソフトクリーム、白玉、どら焼きなど、スイーツのお店が何軒もあって、とても美味しそうです。湯巡りをしながら火照った体を冷たいアイスで、、、なんて良いですねぇ。僕たちはどら焼きを買って宿で楽しむことにしました。
頭をぶつけてしまいそうなほど入り口の小さな酒屋がありました。除いてみると、なかは広々とした土間となっていて、そこに、地酒が所狭しと並んでいます。お店の方に話をうかがうと、やはり地元の焼酎がオススメだとのこと。
僕は酒に強いほうではないので、蒸留酒はやや苦手なのですが、折角なので、オススメの焼酎を買うことにしました。試飲もさせていただけるといいます。いくつかためさせていただいて、結局、香りがマイルドな米焼酎を一本選びました。
ふと横を見ると、三年ぶりに出荷されたという「幻の」梅酒が売られています。これはこれでいかにも美味しそうです。結局そちらも「妻用に」ということで購入してしまいました。
そんな風にぶらぶらしてお店を覗いたり、写真をとったりしているうちに、だんだん暗くなってきたので宿にもどりました。
宿に戻ると、レセプション近くのラウンジがまた良い雰囲気を醸し出しています。
樹のぬくもりたっぷり、ログハウス調のバーカウンターにすわると、目の前の大窓の向こうには、ライトアップされた一面の木立が広がります。春の萌えいずる柔らかな緑が暗闇に浮かび上がっています。静かな夜を、ここでゆっくりと過ごすのも良いと思われます。
僕たちは子どもたちがいるので行きませんでしたが。
かわりに、というわけではありませんが、僕たちは、露天風呂や、別棟での夕食をゆっくりと楽しみました。
この辺りは、春だというのに夜になると、外はかなり寒くなります。寒い外気のなか、暖かい露天風呂に首までつかり、ゆったりと楽しみました。部屋には温泉を使った暖房があり、これのおかげで暖かく夜をすごすことができました。
翌朝はあちこちで鳴くウグイスの声が目覚ましです。かなり早朝から目が覚めました。
名残を惜しんで最後にもう一度露天風呂を楽しもうと、外を見てみました。
なんと!!
雪が積もっているではありませんか。うっすらと、一センチほどではありますが。
露天風呂で、湯煙の向こうに見える、うっすらと雪化粧した新緑の風景は冬とも春ともつかないこの季節ならではの風情です。
渡り廊下の横の桜の花も、綿のような雪の帽子をかぶっていました。
朝食をいただきながら、宿のかたに話をうかがうと、こちらでは時々あるとのこと。やはり標高700mという山間だからなのでしょう。
間もなく雪は上がり、空も明るくなってきました。少しずつ晴れ間ものぞくようになってきたころ、僕たちは宿を後にしました。
そして熊本駅でレンタカーを返却し、九州新幹線に乗り、博多から飛行機に乗って、その日の夜には東京まで帰ってきたのでした。
そんなに前のことではないのに、今はもう夢のようです。つくづく思うに、時間の長さは一定ではありません。
時間の長さは一定ではないことを証明したのはアインシュタインでした。でも、日常生活における時間可塑性を証明するために相対性理論は必要ありません。
黒川温泉はそれを実感させてくれました。
それは、ゆったりとした時間ほどあっという間に過ぎてしまうという、残念な証明なのですが。
いつかまた、もう一度、もっとゆっくりと、あの時間を愉しむために黒川温泉を再訪したいと思います。
あの街の時間はその時まで、今のままでいてくれそうな気がするので。
湯沢へ週末に家族でスキーに行った帰りのことでした。
関越道の水上あたりから車間が徐々に狭まりスピードが落ち、月夜野あたりからは断続的に渋滞が始まり、ついには時速20kmのスピードのノロノロ運転となってしまいました。とても高速道路とはいえません。
「ヤバい」「マジかよ」「シャレにならん」「運転者がコワい」みたいなTweetであふれています。やはり、いったん渋滞に巻き込まれてしまうと、これという回避策は見いだせないようです。まぁそりゃそうです。
ただ、僕たちのいる前橋から藤岡ジャンクションあたりまでは渋滞していない事が明らかとなりました。上信越道との合流から先が大変な事になっているようです。でも、その間だけでも高速道路に乗れれば距離はかせげるし、ずっと下道よりはましな気がします。そこまで行く間に渋滞も改善するかもしれません。よし、行ってみよう。
でも油断は禁物。渋滞はこれ以上改善しないかもしれません。
そこでもう一案、大きく迂回することを考えました。前橋から高速道路に乗り、藤岡ジャンクションの手前、高崎ジャンクションで北関東道にのって東北道の方向に行くのです。そして東北道をつかって南下し、最終的には首都高速をつかって自宅の近くまで行こうという算段です。
この策にも問題が一点ありました。
東北道の上りも渋滞していたのです。ちょうど僕たちが使いたいあたりの、佐野藤岡インターチェンジから久喜インターチェンジの先まで。しかもこちらは事故渋滞のようです。自然渋滞はゆっくり動くけれど、事故渋滞は事故車両の撤去がすまないと本当に動かない事になってしまいます。
Googleマップを見ると、これをさらに迂回できそうな下道が!
北関東道と東北道が合流する手前、太田桐生インターチェンジで高速道路をおり、国道122号線、太田バイパスを使うとよさそうです。館林から先は東北道と平行するように走っています。渋滞が解消されなくても、122号線沿いに入り口のある白岡菖蒲インターチェンジから高速に乗れば、うまく渋滞を避ける事ができます。
あとは出たとこ勝負のつもりで前橋から再び高速道路に乗ることにしました。予想通り渋滞はありません。鶴ヶ島近辺の渋滞もちょっと短くなっています。それでもまだ40kmを超えています。
高速道路の渋滞の表示を見ると、練馬まで120分以上となっています。このとき既に20時30分。練馬で降りた後、自宅までの道のりを考えると自宅に着くのは12時近くになってしまいそうです。気が重いなぁ。
やっぱりここは東北道を使うでしょう。距離は長くなってしまうし、行ったことのない道ですからどうなるかわかりませんが、ダメでも納得できそうな気がします。
高崎ジャンクションから北関東道へ。こっちに行くクルマは少数です。スイスイ行けちゃいます。
いいねぇ。このままずっと行けちゃうか?
でも事故渋滞の長さはあまり変わっていませんでした。
大丈夫だもんね。そんなのお見通しだもんね。
てなわけで、僕たちは太田桐生インターチェンジで高速道路をおり、国道122号線、太田バイパスにのりました。
この122号線はとても良く整備されていて、運転もしやすいし、なかなか快適でした。
「群馬県の道路行政、素晴らしいねぇ。」
なんて、わかった風な、調子の言いことをいながら、Googleマップ上に素晴らしいものを見つけてしまいました。この太田バイパスとさらに平行して走っている東国文化歴史街道という道があるのです。
Googleマップで見ると、あえて太く表示されています。近くにAEONモールもあります。観光客を呼び込むために新しく整備した道に違いありません。さすがだね、群馬県!とワザワザそちらの方に行ってみました。
行ってみると、実際には一車線の旧道で、道は狭いし、街灯もあまり明るくありませんでした。歴史的な史跡がその周辺に散在しているのかもしれないけれど、真っ暗でよく分からず、ただの一車線のさみしい旧道を走っているのと変わりませんでした。知らない道で普段より慎重な運転になってしまいます。
調子に乗りすぎました。先を急ぐ身としてはこの失敗はいたい。
かといって、しばらく行けば先ほどのバイパスと合流するのもわかっていましたし、もどるのも悔しいです。途中にみつけたローソンにクルマを停め、眠眠打破とコーヒーを購入しました。そして、そのために寄り道したのだと自分を納得させ、気を取り直して再出発です。
今週の火曜日、沖縄本島にある沖縄コンベンションセンターで学会発表をしてきました。折角の沖縄出張だったのですが、仕事の関係で、火曜日一日の日帰り出張となりました。今は、こういうことができるんですねぇ、、、。
行きはスカイマークの深夜便を使いました。1時30分羽田発。4時30分那覇着。そして学会に出席をして夕方こちらに帰ってくるというスケジュールです。帰りは普通にJAL便を使いました。
家を出るのは月曜日の深夜です。それまで小一時間ほど仮眠し、家を出ました。空港へは車で。まる24時間駐車しても駐車料金は1500円です。電車料金より安いくらいです。
夜中だと道がすいているので、所要時間も電車よりずっと短いので楽です。
唯一心配なのは、帰りの僕の体力です。このあと、いかに体力を温存して帰って来れるかが勝負です。
羽田空港は閑散としていました。スカイマークのチェックインカウンターをのぞいて。
ここから搭乗口人にたどり着くまでの要所要所に警備員が立っています。
そりゃあ、セキュリティを考えればそうですね。変な人に変なところに行かれては困ります。
飛行機はほぼ満席でした。若者ばかりかと思っていましたが、小さなお子さんを連れた家族もいました。
ネクタイしめたビジネスモードのオヤジは僕一人。
でも、羨ましいなんて言っていられません。何しろ今の僕にとって、体力温存は至上命令です。飛行機が飛び立つ前に眠りに落ちました。
暗がりの那覇空港についたのは朝四時でした。予定より30分も早いです。30分、空港の上空で旋回しててもよかったんですが、、、。
まぁ仕方ありません。
飛行機を降りて出口に向かいます。セキュリティの状況は那覇空港も同じ。とても夜が明けるまで、とどまっていられる雰囲気ではありません。
でもこれは想定していた通りです。
すぐにタクシーをひろい、モノレールの赤嶺という駅の近くにある24時間営業のマクドナルドに向かいました。
ここでモノレール始発まで2時間ほどすごす予定です。発表の最終チェックをすることもできます。
ところがここで想定外の事態が。
タクシー運転手さんが声をあげました。
「あれっ?」
僕はまだわかりません。
「やってないね。終わってるよ。」
確かにそこには店の電気が消えたマクドナルドが、、、。閉店して間もないのか、なかでは掃除をしているようです。
看板には24時間って書いてあるのに。HPにだってそう書いてあったのにぃ、、、。
宿もとってないし。どうしましょ。
ここまで来る途中、朝までやってる飲み屋もありました。でも、これから発表するのに、飲み屋に行く気もしません。
運転手さんに相談したところ、次の駅の近くに24時間のインターネットカフェがあるとのこと。
ついにネットカフェ難民になってしまった、、、。
けれども、贅沢は言っていられません。初インターネットカフェを体験することになりました。
よりによって、こんなところで。よりによってこんなときに。
中に入ってみると壁いっぱいにすごい数の漫画が本棚に。ここは漫画喫茶か???
100円の入会金を支払って、料金システムの説明をうけます。
10分ごとに料金がチャージされます。人間コインパーキングみたいです。
お得な二時間セット、三時間セットなんていうのもあって、長時間を予め申し出るとすこし安くなるように設定されています。僕が選んだのは3時間セットで約1000円でした。
フリードリンク付き。
そこで気がつきました。あぁそうか、一応「カフェ」だものね。ここは。
「カフェ」ですが、かなりクローズドな雰囲気です。インターネットをするスペースは一人ずつ小さな小部屋に仕切られています。
聞いてみると、いくつかのタイプがあるようです。僕は横になりたかったので「リクライニング」というのを選びました。
空いているスペースの中から16番というのを選んでそこまで行ってみます。
薄暗くなった広い部屋が1人1.5〜2畳くらいのスペースにしきりで分けられています。入り口は引き戸になっていて、上は空いているけれど、一応半個室状態。
静かですが、微妙な人気が感じられます。
人がいないところは扉が開いています。
人がいると思われるところでも、電気がついているところは殆どありません。朝5時前だものね。
とりあえず、「16番」のスペースに入って状況を確認します。
奥にコンピュータとテーブルライトが備え付けられ、手前にリクライニングシートがおいてあります。食べ物のメニューもあって、軽食はとれるらしい。
フルリクライニングにして横になるくらいのスペースは十分にあります。驚いたことに、100円払えばシャワーも浴びられるようです。「カフェ」なのに。
夜を過ごすところのない人がネットカフェで寝泊まりするのがよくわかりました。
フリードリンクのエリアでアイスティーをもらってきて、スライドのチェックをしました。iPhoneやコンピュータの充電もできて、ネットで自分のいる場所、学会会場までの道順も確認できました。何とか先が見えてきた感じです。
ちょっと安堵しました。
ここを発つまでにあと1時間半くらいあります。折角のリクライニングシートです。7時前までゆっくりと仮眠をとりました。
会計をすませ、モノレールに乗って那覇市中心部へ。そこからバスに乗りかえて学会場に行きました。
空はもう明るくなっていました。空の青は東京と全く違います。とてもキレイ。雲も。バスに乗っている間にはスコールのような通り雨が降りました。
南国だなぁ、なんて思いつつ、それを楽しむ余裕もないままに、8時半過ぎには学会場に到着し、スライドチェック。
気がつくと、僕の後ろにボスが立ってました。
「いつ来たの?」
「今朝来ました。」
息を飲むボス。
「ふね?」
「いえ、一時半羽田発の飛行機で。」
そんな会話で全く意味のない優越を感じつつ、9時からセッションが始まりました。
10時半からは僕の発表。午後のポスターセッションまで出席をして、帰路につきました。
帰りは特に驚くべきこともなくスムーズに羽田について、車で自宅につきました。
帰りの方が、先が見えているし、慣れたところへ戻って行くので精神的にも楽ですね。
ようやく長い一日の終わりです。体力的には想像していたのより大分楽でした。(それでもちょっときつかったけど)
これは、ネットカフェで休めたのが要因だと思います。マクドナルドで座って2時間すごすかわりに、フルリクライニングで仮眠をとれたのですから。
そんなわけで、沖縄に行く時、スカイマークの深夜便をつかって節約をするなら、ネットカフェでの夜明かしはアリだと思いました。
それより、なにより、日帰りなんかでなく、ゆっくりできるスケジュールで行くのが良いですよね。
やっぱり。
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