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文化・芸術

没後七十年

最近、没後七十年と、同じ年に逝去した二人の芸術家の回顧展を見にいきました。
南薫造
恵まれた環境、恵まれた才能、奢ることなく、溺れることなく、努力、勉強、研究を重ねた、そんな作品群のように感じました。「日本の印象派」と紹介されていましたが、風景画のなかにはキュビズム的な要素や、フォビズム的な色彩が取り入れられたりしているように感じるところや、ミレー、ゴッホの影響を感じるようなものもありました。あくまで浅い知識しかない、僕の印象です。多分、もっともっとたくさんのものが詰め込まれているのでしょう。詰め込まれているだけでなく、消化され、吸収され、昇華されているのだろうと思います。
また世界中を旅して描かれた風景画、スケッチには圧倒されます。ただぼうっと風景を眺めている自分とは全く異なる次元の旺盛な精神活動だと思いました。そしてその画風はあくまでおだやかで、作家の品性を感じられることができるものでした。
吉田博
自分のやりたいことを明確にイメージできていた人、そんな感じがしました。若い時からずっと見据えているものがあったように思いました。その空気感は、油彩画、水彩画、木版画と、手法は変われど、若い頃から凛として変わることはなかったように思います。
世界中を旅して風景画を残していますが、そのエネルギーにも驚かされます。時は、今から百年以上も前の1899年。文化的にも経済的にも、日本と欧米の違いはずっと大きかった時代です。海の向こうの情報も今から比べれば圧倒的に少なかったでしょう。その時代に、彼はいきなり私費で渡米して、自分の絵を売って金を稼ぎ、美術館で展覧会まで開いてしまいました。そんな伝説的と言ってもいいような経歴にも、絵を見ると、さもありなんと、すんなり納得してしまいます。
44歳から始めた木版画ではさらにその空気が研ぎ澄まされていったように思います。
西洋画を学んだ作家が浮世絵の技法を用いて、国内外の風景を木版画で制作するのです。浮世絵と近代絵画が融合して独自の世界がひらけます。当然ですが、若い頃からの空気感も一貫しています。
そこには、古さというよりは、漫画やアニメにも通じる現代性と普遍性があると思いました。
百年も前に世界を前にして、ひるむことなく、のびのびと才能を発揮したというだけでなく、たゆまぬ進歩を続けた人たちがいたことに感銘を受けました。

先週末、人生2度目の歌舞伎観劇でした。スーパー歌舞伎。とても良い体験でした。

先週末、人生2度目の歌舞伎観劇でした。スーパー歌舞伎。とても良い体験でした。

歌舞伎なんて、高校生の時、授業で見に行った記憶がうっすらとある位。

同級生に「じゅんやくん」っていう、歌舞伎好きの人がいて、「なんとか屋!」ってかけ声をかけてましたっけ。「変なヤツ」なんて思ってました。

あの頃は学校のやる事なす事に反発していました。授業態度も悪かったですね。

古文の授業で先生にさされた時、立ち上がって、
「古文は爆発だ!」

と答えたことがありました。先生の質問とはまったく関係なく。

言うまでもなく、当時はやっていた岡本太郎のコマーシャル

「芸術は爆発だ!」

をまねたものでした。

友人には笑ってくれた人もいたと記憶していますが、先生には教科書のカドで頭をぶん殴られました。なんでそんなつまらない事をしたのか、今となっては自分でも理解不能です。アホウ以外の何者でもありません。

歌舞伎も

「古文」+「マニアック」=「理解不能」

と、自分で勝手に答えを出していました。

歌舞伎なんて、古く凝り固まったホコリ臭い過去の遺物にちがいない。そんな勝手なイメージでした。

ですから、高校の歌舞伎観劇で何を観たかなんて、全然覚えていません。

今回は市川中車、市川團子の襲名披露ということで見に行く事になりました。スーパー歌舞伎なら大丈夫ってことで、子どもたちも一緒に。

難しそうだなぁ、、、。3時間以上もかかるみたい。子どもたち、寝ちゃうんじゃなかろうか?なんて思いながら見に行きました。

結果的に、予想は見事に裏切られました。子どもたちも大変楽しんでいました。

凝り固まっていたのは僕でした。

こりゃすごい。ただものではない。古典も観てみたい。

本当に、そう思いました。(少なくともその時は。)

まずは四代目市川猿之助さん、九代目市川中車さんの心のこもったはじめの口上に感動しました。

「襲名」とは過去の業績を受けつぎ、自分の命を吹き込んで、生き生きとした伝統を次の時代へ継承することで、責任を果たす事に他ならない。そんな強い精神性を感じました。

そして中車さんについて、猿之助さんが暖かくも厳しい言葉をかけながら紹介します。

そのなかで、

「前例がなければ、つくればいいんです。」

という、毅然たる言葉がありました。そうだよね。その通りです。

でも、僕などが軽々しく同意できない位の、並大抵でない勇気と決意なのだと思います。それが、表情、言葉、空気から伝わりました。厳しい芸事の世界で、とてつもない事を言っているのだ、そう感じ、思わず背筋が伸びました。

さて、本編のスーパー歌舞伎。

僕の演劇鑑賞経験なんて、ほんとに浅はかです。大学時代にアングラ演劇を観に、劇場通いをちょっとしたことがある程度。前述のとおり、歌舞伎をまともに観た経験はほぼゼロ。知識だって、街角インタビューをされたら、お茶の間の笑い者になる位しか持ち合わせていません。

ヤマトタケル、ストーリーくらい予習しておけば良かったかなぁ、、、なんて後悔しても時既に遅し、、、。

そんな僕でも楽しめました。ここから先は僕の浅はかな解釈です。

(感想を書くのに、これほど言い訳をしないと恥ずかしくて書けません、それ程浅はかだと自覚していると言う事です。ご容赦ください。)

言葉は現代語だし、演出も現代風。そして豪華絢爛。その中に、確かに僕でも歌舞伎らしいと思える節回しや、見得などがちりばめられています。「早変わり」もマジックみたいでした。また、燃えさかる炎を、体を使って表現する演出は、圧巻の迫力でした。

最初から最後まで、体で演じる「生々しさ」に釘付けでした。

加えて、さまざまなメッセージが織り込まれていると感じました。

ヤマトタケルは父と子の物語です。現実と重なります。ちょっとリアルに重なりすぎる感じもしましたが、物語はそれだけではありませんでした。原作者の梅原猛らしいストーリーが息づいています。

新しき文明を率先してとりいれたヤマトの国が、野蛮な辺境の地を征伐してゆきます。

新しきものを取り入れるのが時代の流れです。その良いところは確実に存在します。恐らく、古き良き日本も、それをすべて否定していたわけではありませんでした。

ただ、彼らは、新しさにより、大切なものが見えなくなってしまうことに気づいていました。辺境の野蛮とされていた、熊襲、蝦夷。征伐される側の彼らが否定していたのは、うそ、偽りでした。

政治、文明社会の腐敗の対局として、こころから湧き出る言葉、絆、情の大切さが表現されていました。

そこに、出演者の真剣勝負の気迫が加わります。物語の後半に、

「金、名誉など世俗的なものではなく、もっと大きなものを目指して来たような気がする。それが何かは私にもわからない。」

そんなセリフがありました。

それをどう聞くかは人それぞれでしょう。けれど、あの張りつめた空気のなかには確かに「もっと大きなもの」があったような気がします。

少なくともその片鱗に触れた気がしたから感動したのだと思います。

劇団こまつ座のミュージカル「十一ぴきのねこ」(作=井上ひさし 演出=長塚圭史 )を観てきました。よかった。

昨日、「十一ぴきのねこ」を観てきました。

今年は、井上ひさし生誕77周年とのことで、「井上ひさし生誕77フェスティバル2012」と銘打ち、8本の井上作品が再演される、その第一弾とのことでした。

よかったです。

「十一ぴきのねこ」子供向けの絵本を題材にした演劇です。 

十一ぴきのノラねこが「おおきなさかな」を求めて旅に出ます。そして力を合わせて「おおきなさかな」を手に入れます。

わかりやすいメッセージがしっかり込められています。

夢に向かって力を合わせることの素晴らしさ。

あきらめないこと。

それを実現した喜び。

子供が見てもわかり易く、素直に楽しめるストーリーです。

劇では、役者さんたちの演技、歌、一緒に演奏されるピアノのどれもが素晴らしく、大変に盛り上がり、とても楽しめました。

子供向けではありますが、よく考えてみると、お堅い教育的見地からは容認し難そうなエピソードが語られています。

正々堂々と勝負せず、さかなが眠っているところを襲って獲物としてしまったり、暗闇にまみれて自分勝手な行動(さかなを勝手に食べてしまうこと)をとったりすることなどです。

現実世界でよくある話を象徴しているようにも思えます。

ヒトはパンのみにて生きるにあらず。

けれど、パンなくしてヒトは生きられず。

絵本ではそこまで飲み込んで、毒気のない、ほっとした笑いを醸し出しています。

劇はその辺に焦点を当てます。夢を実現し、お腹いっぱいになったところでは終わりません。

彼らは「おおきなさかな」をつかまえ、夢を叶えます。

お腹がいっぱいになって、そこに理想郷が実現されます。

最初は良いけれど、それは腐敗、堕落のはじまりでした。

「初志」が声を張り上げようとすれば、それは抑圧されます。

「初志」を忘れぬ者は、悔し涙にくれながら、それでも歌います。

かつては楽しげに聞こえたその歌が、悔しげに響きます。

でも、ただ悔しげなだけではありませんでした。

その涙、歌に希望を感じること。

それが、作者、演出家のメッセージなのかなぁ、、、と思いました。   

「いつの時代も同じ」ということなのか、「今だからこそ」ということなのか、両方なのか、、、

よくわかりませんが、希望は持ち続けねばならないのだと思いながら、観劇を終えたのでした。

パウル・クレー展の展示手法がおもしろかった。

もうすぐ終わってしまいますが、、、。パウルクレー展に行ってきました。

我が家にはクレーの絵のレプリカが二枚、壁にかけてあります。

ネコを描いたものと、神話をモチーフとしたもの。

ポエティックな雰囲気を漂わせながら、静かな精神性を感じさせる所が好きです。

一昨年、BUNKAMURAで開催されたピカソ・クレー展ではどちらも詩的でありながら、外交的で明るい色彩のピカソと、内向的で落ち着いた色彩のクレーが対比され、興味深く楽しんだ記憶があります。

今回は最初から最後までクレー。

展覧会のオープニングを飾るのは、自身の一連の自画像。手、顔などが強調された作品が、連作として並べられていました。画家の悩みが強く感じられました。思い悩んだ末の最後の一枚は、余分を全て排除して沈思黙考する画家の顔でした。強い覚悟が見えます。

この自画像に始まって、カンディンスキーのような色あいのものや、キュビズムの影響が強いもの、バウハウス時代の実験的な試みなど、いろいろな作品が手法ごとにまとめられて展示されていました。その手法は、油彩転写という手法の他、絵を切ったり、以前の絵を回転させて描き直したり、裏に別の絵を書いたり、、、。いろいろやってるんですねぇ。

今回の展覧会では、クレーの作品そのものに加え、展示手法も面白いと感じました。展示室は多角形の島のように配置された壁によって仕切られて、順路や絵の番号は一応示されていますが、迷路のようです。前述のごとく手法ごとにまとめられているので、作品の並びは時系列ではなくなります。

始めはあまり意識しませんでした。ボーッと楽しんだ、その後の事です。

展覧会に飽きてしまった娘になんとか興味を感じさせようと、僕がイイと感じた絵を見せて回りました。

多角形によって仕切られた会場で、何度か曲がり角を間違えて、同じ絵にたどり着いてしまいました。一方、違う順番で以前にみた絵を見ると、何故か新鮮に感じられることもありました。

ある場所では、その立ち位置から見えるほかの他の技法によって作成された絵とのつながりが感じられました。

ひとつひとつの手法は、画家の中では相反するものではなく、互いに繋がりあうものであったのだろうと、当たり前の事を改めて感じました。

一枚一枚の絵だけ見ていたら、そのような感想は持たなかったと思います。

この絵の配置もクレーの解釈を体現したものなのだということを感じました。

(ちなみに、娘に興味を持ってもらおうと言う、僕の試みは、全て「わかんない」「つまんない」と言われ、徒労におわりました。とほほ、、、。)

ドラえもん

池袋の東京芸術劇場で舞台版ドラえもん のび太のアニマル惑星 を見てきました。


公演が始まる前、会場に入った時に「ずいぶんスタンド花が多いなぁ」と感じました。通常、子供向けの演劇などではあまり見ない光景です。席に着くと、タヌキとブタ(の格好をした役者さん)がパンフレットを売っていました。買ってみると、そこにオフィス・ザ・サードステージの文字が。え?と思って開いてみると演出・鴻上尚史となっているではありませんか。

「のび太のアニマル惑星」には漫画も映画版もあります。舞台化に際して、ストーリーのアレンジはなされなかったようです。そのためでしょう、アニメがそのまま使われているところもありました。でも、当然のことながら、舞台ならではの演出もたくさんありました。舞台の奥行きと観客席まで使った立体的な演出は舞台でないとできないものです。また、タケコプターで空を飛ぶところは、黒子が模型を操ったり、ワイヤーアクションを使ったりしていました。後半にでてくるミュージカル仕立ての演出も自然に楽しめるものでした。 子供そっちのけで楽しめたのは、役者同士の細かな台詞回しや、笑いのとり方でした。舞台ならではの味がして、ライブの良さが出ていると思いました。


キャストの方々も、ダンスに余裕のないのび太くん、微妙に突っ込むしずかちゃん、そのまんまのジャイアン、素で言ってるのでは?と思わせるスネ夫まで、実にはまっていました。アニメがそのまま使われているところもありましたが、違和感を感じさせないほどでした。子供達は原作に出てくるイメージどおりの登場人物を見て、ドラえもんの他のストーリーもリアリティを感じながら楽しめるようになるのではないかと思いました。 


ドラえもんはさすがに着ぐるみでしたが、あのでっかい頭の中に入っていた人がどうやって視野を確保していたのか不思議でした。

あまり期待せずに行ったのですが、予想外の事に学生時代を思い出し、大変楽しめました。最近「カンフーパンダ」はじめとし、子供向けの作品に感動する傾向が強いのですが、まぁ、楽しんだもの勝ちだと思っています。


それにしても、ニムゲと戦うときに登場した巨大な空気砲は感動しました。空気砲から発射された「弾」がもやもやとした煙の輪となって、観客の頭の上を飛んでいくのです。5メートル以上は確実に飛んでたと思います。

あれ欲しいなぁ。

うれしかったのだろうか、、、。

プラハの町を歩いていて、特にローマ時代のものと思われる彫刻や建物にある装飾で気になる点がありました。

人の足場が筋骨隆々とした人によって支えられている、という形をとっている事が多いのです。バルコニーの柱がそのような人間の形に彫刻されていたり、人物彫刻の土台がそのようにデザインされていたりします。彫り込まれた人々はみな必死の形相です。鎖がかけられている事もあります。当時の為政者にとっては力の象徴だったのでしょう。

時代の違い、価値観の違いなのでしょうが、そういう状況になったら僕はうれしいだろうか?とふと考えてみると、答えは否。人に何かを強要し、踏み台にして自分が高みに登ってもうれしくないと思うし、そのような人を見ても僕は羨ましいと感じないと思います。

精神的、経済的には現代も同様の構造があるのではないか、という意見もあるかもしれません。また、ヨーロッパの彫刻ほどあからさまではありませんが、それに近い事が好きな人は現代日本社会にもいるかもしれません。ただ、個人的には「人にあからさまに何かを強要し、それにより満足を得たり、自己の力を誇示する」感性は持ち合わせていないつもりです。

僕は、それとは反対の方向に進みたいと思います。

そんな事を考えていたら、チャップリンの"The Great Dictator" (1940)の演説を思い出しました。

最初の部分だけ拙訳を添えてご紹介します。(間違えていたらご指摘ください。)

I'm sorry, but I don't want to be an Emperor - that's not my business. I don't want to rule or conquer anyone. I should like to help everyone, if possible -- Jew, gentile, black man, white. We all want to help one another; human beings are like that. We want to live by each other's happiness, not by each other's misery. We don't want to hate and despise one another. In this world there's room for everyone and the good earth is rich and can provide for everyone.

申し訳ない。けれど私は皇帝になりたいとは思わないのです。興味がありません。私は征服したり打ち破ったりなんて事をしたくはないのです。可能であれば、ユダヤ人、非ユダヤ人、黒人、白人、全ての人を助けたいと思うのです。私たちは、人である限り助け合いたいと思っているはずです。私たちは互いの幸福により生かされたいと願いますが、他人の悲劇を食い物にしたいとは思わないものです。互いに憎み蔑み合うなんて事は望みません。この世界は皆が仲良く暮らすだけの余地がありますし、大地は肥沃で全ての人に恵みを与えてくれるのです。

ここから後が一段と良くなっていくのですが、、、。興味のある方はこちらをご覧ください。映像とともにテキストが参照できます。