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きょうとつれづれ

研究会で京都に行ってきました。

京都は碁盤の目のように道がまっすぐです。両側にビルをはさんでずうぅっと向こうまで見通せます。この点ではニューヨークのマンハッタンと一緒です。違う点の一つが、その向こうにみえる風景です。マンハッタンでは空が見えます。だから摩天楼はSkyscraperと表現されます。scraperとは表面の付着物をこそげ落とすための、へらのような工具のことです。たしかに空が摩天楼によって削られているように見えます。

京都では道の向こうに見えるのは山でした。盆地ですからね。春の日差しに照らされた山の色合いが、街並を穏やかな風景にしてくれているように思いました。

宿泊したホテルでは「密教学会」なる学会の理事会懇親会が開かれていました。学会というのは知識の共有を目的とするものだと思っていたけれど、「密教」と「学会」って素人的には新鮮な組み合わせのように思いました。

思い返してみれば、宗教は学問でもあったのですね。随分前に岩波新書の「玄奘三蔵」を呼んだことを思い出しました。西遊記のモデルにもなった玄奘三蔵は真理追究のためインドまで赴いたのでした。

西洋においても科学は神学から分枝したものだと聞いたことがあります。

そんなことをつらつら思っていたら、随分前の記憶がよみがえってきました。学生時代の頃です。当時僕は、高校の先輩に、「神は本当に存在するのか?」と事あるごとに食ってかかっていました。その先輩は、そのとき、神学大学の学生でした。今は、韓国で牧師をされています。

なんで僕がそんなことを言っていたのか、今でもよくわかりません。でも、その先輩とそういう話をすることが、当時の青臭い僕にとって、とても大切なことのように思っていたのは覚えています。

真面目な先輩はヘブライ語とかを勉強していたような気がします。

見たこともないような文字を勉強しているのを見て僕が驚く一方で、先輩は僕が持っている教科書を見て

「難しい漢字がいっぱいだ!」

と驚いていました。僕は心の中で

「日本語で医学を勉強するのとヘブライ語で神学を勉強するのと、どっちが難しいと思ってんだよ。」

と笑っていました。

その先輩との議論では、

「神学という学問は、過去2000年にわたって何が真実であるのかについて、考えてきた学問なんだよ。」

と言われ、真面目なんだけど、壮大で、どこか煙に巻いたような議論を延々と聞かされた気がします。

「『神の存在を直接証明できない事』や『自分たちに不都合な現実』をもって神が存在しない事の証明にはなり得ない」

とか、

「自分の信じる社会正義実現のために神を用いてはならない」

とか、そんなことを言っていたような気がします。

結局のところ、積極的な存在証明ではなかったためか、当時の議論は納得した想いを得られずにいつの間にか終了してしまいました。議論には買ったわけでも、負けたわけでもありません。結論もよくわかりません。そのまま20年以上が経って、今はそれでよかったのかな、と思っています。

目的があって、あるいは、自分の都合で、宗教を信じる、頼るということには違和感を感じます。自分として納得できません。人から言われて思いを変えるものではないと思うので、「信じなさい」といわれると、天の邪鬼な僕は信じたくなくなります。

かといって、優柔不断な僕は無神論を支持する程の強い気持ちもなく、『いなければこそ神を信ずる』と言い切る程の気持ちは更になく、「あいまいな日本の私」のままでいます。
我ながら本当に日和見だなぁ、と思いますが、どちらつかずの状態が僕には居心地よく感じられるのです。

神さまがいても、いなくても平穏であることがいちばん。

そんなこと言っていられない状況も多々あるのでしょうが、ゴメンナサイ、今は正直、そう思ってしまうのです。

ひとりでつらつらと、そんなことを想いながら京都の夜をすごしてきました。

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