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「サルファ剤、忘れられた奇跡」を読みました。

たった数十年前。僕たちの1ー2世代前の話。こんなに簡単にヒトが死んでいたのか。とても驚きながら読みました。浅学非才をさらすようですが、人類初の抗生物質はペニシリンではないことも知りませんでした。

今、常識となっている、気軽に使っているクスリ。抗生物質。それがなかった時代。感染症の概念が確立していなかった時代。病院内で感染が流行することは普通にあったようです。恐ろしい病気でした。

本書では、産褥熱が紹介されています。以下、産褥熱について、記載の引用です。

『産褥熱にかかった出産婦は分娩後一日か二日で便がゆるみ、胃が痛くなる。そのあと症状は急に進む。数時間で医師は子宮のこわばりに気づくかも知れない。刺すような痛み、頭痛、ときに咳、そして高熱。しばしば舌が黒くなった。患者によってはまた妊娠したかと思うほど腹部が膨れ、皮が太鼓のようにはる。』

亡くなった女性の腹の中は、気を失うほどの臭気を放つ膿でいっぱいだったと言います。

産後入院中の女性の間に産褥熱が流行します。18世紀の終わりには5人に1人の出産婦が産褥熱で命を失われていました。流行すると発症率、死亡率は劇的に上昇しました。でも当時、原因が何かは知られていませんでした。

なぜ、新しく出産した女性なのか?
なぜ、同じ冬、同じ市内で、ある病院は多数の死者が出て、他の病院では死者が出ないのか?
なぜ、同じ病院でも、産褥熱はある病棟では猛威を振るって、他の病棟では問題にならなかったのか?
なぜ、産褥熱の流行は病院で問題となるのか?個人宅での出産は病院よりも不潔であったというのに。

これらの疑問に答えるため、様々な状況から様々な仮説が提唱されました。

今でも、時々語られる病院伝説があります。患者さんが亡くなる時、いわゆる「お呼び」が来るというのです。暗い夜中の病棟で黒服を来た男の影を見た、、、なんていう話です。そしてその話には、多くの場合、その「呼びにきた人」は他の人も連れて行くことがあると言います。

この「お呼びが来る」というような「伝説」は、院内感染が、原因も対処法もわからないままに病院で猛威を振るった時代にその源があるのではないかと感じました。

これらに対し答えが出されるのは1800年代中頃になってです。何が原因かはわからないものの、注意深い清潔操作を行うことによって産褥熱の発症率が低下せられることが示されます。

その後、パスツール、コッホ等による生物学、細菌学の進歩を経て、産褥熱の多くが、新しく母となった女性の産道に感染した連鎖球菌によって発症することが明らかとなります。それでも、一旦産褥熱を発症した患者さんでは、治療の手だてがないことにかわりはありませんでした。

本書では、感染症の恐ろしさが他にもイロイロ書かれています。戦場で受傷した兵隊たちにとっての感染症がいかに恐ろしいものであったか。それが、本書の副題にも出てくるゲルハルト・ドーマクにどのような影響を与えたかなどなど。

光が見えたのは1909年です。革命が起こりました。ドイツの化学者パウル・エールリヒが「サルバルサン」という化学物質を梅毒の治療薬として用いることができることを発見しました。このクスリは副作用が強く、梅毒にしか効果がありませんでした。でも一つの可能性を証明したのです。

『実験室で作られた全くの人工合成物質に、病気を治すことができるものがある。』

エールリヒはこれによりノーベル賞を受賞しました。しかし、その後、あまたの努力にも関わらず、約20年にわたり「抗生物質」の開発はすべて失敗に終わりました。

開発のストラテジーも、臨床試験の方法も確立していませんでした。 開発された「クスリ」のおかげで大きな障害を遺す人たちもいました。20年という失敗の歴史は多くの人に

『感染に対する有効な薬物療法の開発は不可能である。』

と信じさせるのに十分な時間でした。でも、信じ続ける少数の人たちがいました。ドイツの化学薬品メーカーバイエルのゲルハルト・ドーマクはその一人です。

彼を含むチームは世界初の抗生物質を開発します。その名はプロントジル。人類が待ちに待った夢のクスリです。その後10年あまりの間、数多くのサルファ剤が開発され、世界を席巻します。その後、物語は大きくわけて、三つの展開を見せます。

1)彼らの「発見」において、誰が最も貢献したのか、誰が賞賛(ノーベル賞)に値するのかという確執。
2)プロントジルが薬効を発揮する真のメカニズムに大きく近づいたフランスチームの「発見」とドイツチームとの確執。
3)米国において制御不能なやり方で大量に開発された「サルファ剤」とその類似薬により引き起こされた薬害。

1)彼らの「発見」において、誰が最も貢献したのか、誰が賞賛(ノーベル賞)に値するのかという確執。
 当時のノーベル賞は個人にのみ与えられていました。このため、チームを組織したヘルライン、最初のサルファ剤を合成した天才化学者クラレルらはノーベル賞受賞者となることはできませんでした。
 ドーマクはノーベル委員会からの招聘状に受賞を喜ぶ返書を送ります。しかしナチスドイツはノーベル賞受賞を禁止していました。ドーマクはゲシュタポに連行され、同年にノミネートされた他二人の受賞者とともに辞退の手紙を強要されます。こうして受賞は見送られることとなりました。(最初に送った返書のおかげで、戦後、ドーマクは改めてストックホルムから招待状が届けられ、ノーベル賞を受賞したのでした。)

2)プロントジルが薬効を発揮する真のメカニズムに大きく近づいたフランスチームの「発見」とドイツチームとの確執。
 フランスチームはドイツチームの発見をエレガントに解析し、その隠された真のメカニズムに到達します。これは製薬会社バイエルの企業利益を大きく損なうものでした。ドイツチームは自分たちの発見を「盗まれた」ことに憤り、フランスチームの「業績」を意識的に無視します。このメカニズムの研究はその後、代謝拮抗薬と呼ばれる種類の抗がん剤開発として結実して行きます。

3)米国において制御不能なやり方で大量に開発された「サルファ剤」とその類似薬により引き起こされた薬害。
 当時、米国において薬剤の開発、発売の主導権は製薬メーカーに独占されていました。彼らを取り締まる法律は殆ど存在しておらず、有害な「サルファ剤」のため67人が命を落としてもなお、その薬剤の危険性を理由に発売禁止とすることはできませんでした。かろうじて発売禁止にできたのは「ラベルの表示が不適切」であったからでした。その実情が全米に明らかとなり、FDA(アメリカ食品医薬局)が拡充され、医薬品規制の土台となる法整備がなされます。
 そして、この薬害とペニシリンをはじめとする抗生物質の開発によりサルファ剤の時代は終わりを迎えたのでした。

本書を通じ、サルファ剤開発の主役、ゲルハルト・ドーマクドーマクはこの物語の中心に存在する重要な登場人物として、その生い立ち、経験、想いなどが愛情を持って丁寧に描かれています。けれども、この物語の主人公は彼ではありません。題の通り、サルファ剤そのものです。

サルファ剤開発にいたる背景、サルファ剤開発当時のドイツ化学薬品メーカーの隆盛、サルファ剤が世界にもたらしたインパクト、その広がり、さらに周辺の薬剤開発が提起したさまざまな問題点、それらがいかに解決されていったのか、などなどが詳細に描写されています。

丁寧な描写だからこそ、読み終わったとき、「サルファ剤前」と「サルファ剤後」では世界が大きく変わったことがよくわかります。今、常識と思っている事も、大きなブレイクスルーによって、全く異なる世界が見えてくることを実感させてくれる、すぐれた医学歴史教科書だと思いました。


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