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「真ん中の人」を選ぶ

今週末には国政選挙がある。

政治家という言葉に付随して思い起こされるエピソードが僕には二つある。

どちらも苦い。

最初はもう、10年も前になる。場所は父親の葬儀会場。葬儀が始まる前のことだった。

父はまだ働いていたので、当時の職場、前の職場、前の前の職場、そして出身大学の方々、などなど、葬儀には合計800人もの方々に訪れていただいた。

僕は父親と同じ大学、同じ医局の出身であることもあり、出席いただいた大学関係者の多くは僕にとっても大先輩だった。

そして花輪、生花、供花なども数々いただいた。(記録はしてあるが、詳細は記憶していない。)

葬儀の日、会場で贈り主の皆様の名前をどのように配置するかは、葬儀会場の方にお任せしていた。僕たちにそんな経験があるわけではない。常識とされるルールに従って配置していただければいいと思っていた。

その件に関し、僕は葬儀会場の方から呼び出された。贈り主のお一人の関係者と称する方がおいでになったという。その贈り主は「政治家」だった。おいでになった方が、贈り主とどのような関係であると言っておられたのか、記憶はない。多分秘書さんだったのだろうと思う。わからないけれど。

贈り主は県でも有数の実力者。僕でも名前を知っているくらい。その関係者。

自分なりに丁重に挨拶をして、要件をうかがった。

あらかじめ、その「贈り主」のお名前がどのように表記され、その名前、肩書きがどこに配置されるのかを確認したいと言う。

確か、実力者であることは誰の目にも明らかなので、目立つところに、最も大きな字で、お名前を出すようになっていたのだと思う。

しかしその「関係者」の考えは違っていた。

「エラそうに見える」のはよろしくないと言う。もっと控えめな場所に控えめな字で出すようにと。

葬儀場の方にお願いして、文字を小さくして書き直していただいた。

すると、肩書きの文字の大きさがよろしくない。名前とのバランスがまずい。と怒られた。

そして、たとえ控えめであっても、エラい人なのだから、その人であることがわかるようにしなくてはいけないと。

さらには、それぞれの書き始めの位置がなっていないと。

結局、書き直しを3度要求された。その度に葬儀会場の方にお願いして書き直してもらった。

彼は最初からやや威圧的な口調だったけれど、比較的やさしかった。

しかし最後はだんだんイライラしてきたのか、殆ど恫喝に近いような物腰だった。誰の名前を書いているのかわかっているのかと。

遺族がなぜそこまで怒鳴られねばならなかったのか、今でもわからない。

この人にとって、父の死はどうでもいいのだと思った。少なくとも遺族に対して、なにがしかの気持ちなど持ち合わせていないのは明らかだった。

その政治家の名前がどのように見えるのかが大切だった。

僕にはどうでもよかった。

それでも名前を出さねばならなかったことが、とても悔しかった。

二度目は僕が米国人スノーボーダーの自伝の翻訳をして出版した時のこと。

「知り合い」が、本の帯にコメントをしていただけるよう「紹介できるわよん。」と、人づてを介して口をきいてくれた。これまた有名な政治家にコメントをお願いすることになった。

先ほどとはまったく別のかた。

読書が大好きだからと、快諾していただいた。大変有り難いことだと思った。

ところがその後、「知り合い」から細かくチェックが入ることとなる。

まず、「知り合い」は、言葉をいただくために読んでいただくものは、書店に平積みにされているのと同じ「本」でなければ失礼だと主張した。

通情、帯に言葉をいただく場合、製本する時には帯もできている必要がある。製本が終わってから一冊一冊、帯を巻くわけではない。

だから、製本前の原稿をお読みいただくことになる。それを「知り合い」に納得してもらうのに一苦労。

その後、出版社の方が、その政治家の事務所へ挨拶にうかがった。そして原稿をお渡ししてきた。お礼については出版業界の常識を考えながら、事務所の方にもそれとなく質問したらしい。

結局最終的には「お気持ちだけで。」というお返事だったと聞いている。

ところがその「知り合い」は、その報告に納得しなかった。それ以外に、僕に「自分でお礼をしたのか」「自分で直接挨拶にうかがわないのは失礼だ」となじる。

出版社に問い合わせても、そのような事例はほとんど存在しないらしかった。それでも「非常識だ」と怒られた。

結局何度かその先生の事務所に電話をし、先方から「お気持ちだけで十分ですから。」という言葉をいただいてそれで終わりになった。事務所の方も迷惑なことだったかもしれない。

「知り合い」としては、自分が紹介した手前、十分以上に礼を尽くしてもらわねば困ると思ったのだろうか。彼女と僕は、それ以後絶縁状態となった。

いずれも僕の「非常識」が、ことの原因だ。けれど、その「非常識な僕」はこれ以外にこういう経験をしたことがない。

だから、今、僕は政治家の先生がたとお近づきになりたいと思わない。御本人はきっと素晴らしい方なのだろうと思うけれど、「周りの人」に不安を感じるから。

「周りの人」にもイロイロいるだろう。けれど、今のところ、三度目の正直を試す気はない。幸いにして、そのような機会は訪れていない。

そんな経験はあるものの、僕は、今週末、選挙に行って投票する。

国政の場で自分の意見を代弁してくれるのは、「周りの人」ではなく「真中の人」=政治家しかいないと思うから。

国民が「真ん中の人」を通して意見を表明するのが今の社会システムだ。

そう考えてみれば、「真ん中の人」にすり寄らずとも、広い意味では、僕自身「周りの人」なのだ。

好むと好まざるとに関わらず。

その意味で、「周りの人」である自分も当事者だ。本来無関係ではあり得ない。その意識を持たなくてはならない。

選挙では、自分にとっての「真中の人」はどの人なのか、よく考えて行動したい。

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