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麻布中学「ドラえもん問題」

東京の名門、麻布学園の今年の中学入学試験問題で次のような問題が出されたそうです。

<「ドラえもん」がすぐれた技術で作られていても、生物として認められることはありません。それはなぜですか>

この問題、だいぶ話題になっているようですね。

今日、Facebook で友人がとりあげ、先日、飲み会の席で別の友人からも聞きました。「正解」はネット上の記事にゆずるとして、僕の勝手な考えを記しておこうと思います。

僕の答えはこうです。

『「ドラえもん」がすぐれた技術で作られていても、生物として認められることはないのは、「すぐれた技術」が実はまだ「未熟」だから。』

その理由は、現代の生物学のよって立つ足下にあります。

かつての生物学は博物学でした。あんな生き物がいる、こんな生き物がいる。その生態は、、、、。そしてそれが論理的に説明できるようになり、パスツールにより、実験とその再現性の重要性が認識され、近代生物学が確立しました。

その後、クロード・ベルナールの『実験医学序説』などが著され、医学にもこの考えは及びます。(この本、僕の本棚に鎮座ましましたまま、放置されています。いつか読みたいと思っているのですが、、、、)

その後、生物学、医学は、生理学、生化学、分子生物学などの分野において目覚ましい発展を見ます。そしてその進歩を礎に、現代の医療が成立しています。これは今後当面変わる事はないでしょう。

ここで発展してきた学問は博物学とは全く違います。メカニズムを探求するものです。「メカ」という言葉に表されるように、機械論的世界観がここにあります。

生物を機械と捉え、その構成要素を部品のごとく考え、そのメカニズムを探求すること。

この事こそが現代の医学、生物学を支える根幹に立っているのだと思います。

そして、問題の中にとりあげられたとされる生物の特徴、

(1)「自分と外界とを区別する境目をもつ」
(2)「自身が成長したり、子をつくったりする」
(3)「エネルギーをたくわえたり、使ったりするしくみをもっている」

のいずれも、その「メカニズム」が今でも研究対象となっているのです。

ですから、この観点からすれば、ロボットによって再現できていない、生物の特徴は、人間の知識、理解、技術のいずれかに理由があるのだということになります。

このような世界観によってかつてあった「生気論」の復活が試みられたこともあったようですが、僕の知る限りにおいては失敗に終わっています。少なくとも、機械論に依拠した価値観、方法論で「生気論」の正当性を証明することはできないようです。

また機械論に依拠した世界観で生命を「組み立てられる」可能性を感じさせる実例もあります。

大賀ハスやクマムシです。

大賀ハスは2000年以上も種子の状態で時を過ごしたのち、発芽して花を咲かせました。現代の常識では種子はエネルギー摂取をして代謝したりすることはありませんから、2000年もの間、種子を構成する分子は「静止」していた事になります。それを部品のごとく組み上げれば、大賀ハスが出来上がるはずです。

クマムシも同様です。クマムシは水分が不足すると全身を硬い殻で覆った「タン(樽)」という状態となります。この「タン」は、絶対乾燥状態、100℃を超える高熱、絶対0℃に近い低温、数万気圧の高圧、真空、紫外線、放射線など、地上で考えうるあらゆる極限状態に耐えることができます。しかも、水を与えるとたちどころに、もとのクマムシにもどるとのこと。この「タン」ももしかしたら「組み上げられる」かも知れません。

このように思ってみると、機械論的立場からは、厳密に言えば、生物と機械に差はないことになります。

そしてその立場から、現代の医学、医療が成り立っているのです。

もちろん我々の知識、理解、技術はそのいずれもが、ドラえもんにすら遠く及ばない未熟なものですから、この点を理解して現実を見つめなければなりません。

機械論を超える世界観が示されるのか、機械論が究極まで発展し、神をも脅かすほどのSF的発展をとげるのか、妄想するのは、ヒマツブシとしてはなかなかに愉しいものです。

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