体罰について思うこと
今、マスコミで話題になっている「体罰」について。自分も2人の子供を持つ親として思うところがあります。浅薄なものですが。
体に罰、好きな言葉ではありません。
ただ、「体罰」=「悪」、「指導者の意識改革を!」と決めつけた単純な論調にはやや違和感を感じます。
なにか、わかりやすすぎて。
その違和感はモヤモヤとしたもので、自分の中でも、まとまりがありません。このままだとモヤモヤしたまま何となく消えていってしまいそうなので、甘いとは思いますが、今、自分が思っている事を記してみようと思います。
足りないところなど、ご指摘いただければ幸いです。
まず、「体罰」という言葉について。
母親が目に涙をいっぱい溜め、思わず繰り出してしまった息子へのビンタを、今、問題視されている「体罰」と同じに考える人はいないでしょう。
昨年の日本シリーズ第2戦、舞い上がってサインミスをしてしまった沢村投手の頭を阿部捕手がポカリとやりました。その後、沢村投手は立ち直り、見事な投球を披露しました。このポカリも「体罰」と呼ぶ人はいないと思います。
物理的な刺激によって「ハッ」と気づかされることもないわけではないと思います。でもそういうものが問題となっているわけではありません。
ここでは「体罰」と言う言葉は、教育などの場において行われる(行われてきた、行われる可能性のある)「身体的痛みを伴う、暴力を半常習的に用いた指導」を指すこととします。
僕が思うに、日本には「体罰を肯定する文化」があったのではないかと思います。たぶん、モヤモヤの源泉はそこにあります。
以前、本で読んだことのある野球を例にとります。(ここでさす「本」は主として「ベースボールと日本野球―打ち勝つ思考、守り抜く精神 (中公新書)
」「野球道 (ちくま新書)
」「こんな言葉で叱られたい (文春新書)
」の三冊です。)
野球道なんていう言葉もあるように、野球の日本導入の経緯では、その初期から武士道の精神を注入することが謳われていたようです。
野球が最初に導入された一高(東大)の応援歌は次の様な歌詞だったといいます。
「花は桜木 人は武士
武士の魂そなえたる
一千人の青年が
国に報ゆる其誓(そのちかい)
中略
なおその上にとぎ磨き
月日に励む腕力は
撃剣柔術銃鎗や
ベースボールにボート会」
いやいや、大変な事になってます。撃剣柔術銃鎗とベースボールが同列に並んでいます。文字通り命がけです。
また、昔の学生野球については、
血を流しながら「痛い」と言えず、「かゆい」といって練習したとか、
監督が選手をグラウンドの端から端までぶん殴り続けたとか、
殴ったバットが折れたとか、
果ては、その光景を見た親が「うちの子はまだ見込みがある」と安心して帰っていったとか、、、、
そんなことが書かれていました。そう遠い昔の話ではありません。
これらは、必ずしも否定的な文脈で叙述されていたわけではありません。少なくとも、事実としてそういうことがあったようです。
もちろん、今、僕がそれを肯定しているわけではありません。
ただ、かつて、それを肯定的に見ていた時代があったということは認めなくてはいけないと思うのです。恐らく、他のスポーツでもそうでしょう。その土壌はスポーツだけに限定されていたとは思いません。
廊下に水を溜めたバケツを持って立たされるとか、昔の漫画などにはよくあった光景です。あれだってやらされている状況を想像すれば立派な体罰であることは明らかです。
そのなかで、暴力的な体罰の犠牲となった人もいただろうと思います。恐らくそう言う人は数が少ないこともあって黙殺されてきたのでしょう。(具体的事例の根拠はありませんが。)
けれども、価値観の多様化とともに、体を痛めつけることに価値を見いださない人が増えてきました。そして少数の犠牲者を黙殺しない時代になってきました。最近の議論はそう言うことを背景にしているのだと思います。
体罰を「時代遅れ」の一言で片付けるのは簡単です。僕はこのような体罰がなぜ、指導として成立しえたのかを考えてみたいと思います。そこには継承すべきものと、時代に合わないものが混在しているような気がするからです。
ここで、今をさかのぼること約30年前、高校時代の個人的経験が思い出されます。
修学旅行で京都に行った時のことでした。(恐らく)学校全員で禅寺へ見学に行きました。恥ずかしながら、そのあと座禅を組んだので禅寺だと思うだけで、なんというお寺であったか記憶はさだかでありません。
まず、お坊さんに「お話」をうかがいました。
正しい姿勢をとりましょう、それが日常生活を正すことにつながり、まっすぐ生きることにつながるのです、、、そんな話だったように思います。その後、皆で座禅をくみました。
僕はありがたいお話に素直に納得し、言われるがままに心を鎮めて自分を見つめようと心がけ、目をつむりました。(そんな気がしています。)
ビシッ!
突然、警策(あの、座禅で使う棒のようなもの)で肩を叩かれました。恐らくは最初の一発だったこと、だから、まったく予測していなかったこと、けっこう痛かったことなどから、とても驚きました。
あまりの痛さに、僕は思わずお坊さんをにらんでいました。
僕の座り方のどこを見て、ダメだと思ったのか。無言でぶっ叩くくらいなら、あそこを直せ、ここを直せと言ってくれればいいじゃないか。そんなことを思いました。
彼は僕をみて微笑み返し、ただ、うなずいたのでした。
大変申し訳ないけれどj、30年後の今も強く残っているのは、いきなりぶっ叩かれた驚きと痛みと怒りです。話の内容はこの文章を書くまで「忘れた」と思ってました。書いていたら何となく思い出されてきました。不思議なものですね。
いずれにせよ、残念ながら、あの微笑み返しとうなずきは、僕にとって何も生み出しはしなかったと思っています。僕の意識ではただ見学に行っただけで、座禅を組んで修行しようと思ってあの場にいたわけではないのでした。
そんな不真面目な学生は叩かれても仕方ない?それでは「体罰」になってしまいます。
恐らくお坊さんも本当に修行させようと思われていたわけではないのでしょう。ただ、少しでもリアルに体験させようとお考えになったのでしょう。
でも、あのお坊さんは、僕が肌の色の違う外国人だったら、ぶっ叩かなかったんじゃないか、、、そう思います。少なくとも、反射的ににらみつけてしまうほどの力では叩かなかったはずだと思います。
説明せずともわかっているはずだ、通じる、と思ったから叩いたのだと思います。(想像でしかないけれど。)でも残念ながらそうではありませんでした。
その場で座禅を組むということの意味、位置づけなどについて共通認識が共有できていませんでした。
座禅は修行であって教育や指導ではありません。ここに大きな違いがあると思うのです。この修行と指導が混同されてしまったとき、「体罰」が生まれうるのだと思います。
修行というのは多かれ少なかれ、極限をきわめて新たな境地を求めようとするものだと思います。極限を極める行為に、自分を痛めつける行為が選ばれることがよくあります。荒行と呼ばれるものです。
僕はやったことがないからわからないけれど、体を痛めつけ、極限状態に至ったときに初めて何かがつかめるのでしょうか。そういう「行」につながる意識を持っているヒトにとって座禅における警策は修行の一環でしょうし、ありがたいものなのであることは(多分)間違いありません。
この観点からすれば、警策は体罰ではあり得ません。 修行の一環です。
それはよくわかります。
一方、話は少し飛びますが、僕が思うに、日本人は極めることが大好きな人たちです。
ラーメンしか出さない、そばしか出さない店、うどんしか出さない店、寿司しか出さない店、ウナギしか出さない店、トンカツしか出さない店、そんなレストランが数多く存在し、それらの店の料理人が職人として認められる国は世界中で日本以外にそう多くないはずです。僕の少ない経験からは、多分、日本だけだと思います。
勿論、そのほかにも様々な分野で「職人」がいます。
そして「道」が好きです。当然、武道はみんな道。柔道、剣道、弓道、相撲道、、、。その他にも、華道、茶道、書道、香道、、、 。
スポーツも道になっちゃいます。始めの方で書きましたが、「野球道」なんて本もあります。以前、北島浩介選手はインタビューで「水泳道」って言ってたことがあります。
そして多分、職人たちの多くは「その道」を歩んでいます。スポーツ選手も精神的には共通するものを意識することがあるでしょう。
僕の知る限りにおいて、この「道」を極めようとするとき、多くの場合、精神修養が必要と感じられるようです。そこには修行のイメージがあります。それは不思議なことではないと思います。素晴らしいことだと思います。自分が自発的に行う限りにおいて。
この時、座禅と警策のイメージが、今問題となっている選手と指導者のイメージに重なってくると思うのは飛躍し過ぎでしょうか、、、。
学生スポーツは教育の一環として位置づけられています。新学習指導要領の体育には、第一項にこう書かれています。
「心と体を一体としてとらえ,適切な運動の経験と健康・安全についての理解を通して,生涯にわたって運動に親しむ資質や能力の基礎を育てるとともに健康の保持増進と体力の向上を図り,楽しく明るい生活を営む態度を育てる。」
「心と体を一体としてとらえ」ることに全く異論はないのですが、それを教育、指導の立場から、いびつな形で拡大解釈すると、カラダを痛めつける事によって心をただそうとするカルチャーにつながりかねないのではないかと思います。
「以心伝心」が成り立つような状況で、「指導=修行」というような意識が共有されていると互いに認識している時、一定のルールのもとで、あるいは抑制のきいたやり方で体を痛めつけることは「指導」でありえたのかもしれません。
けれども「以心伝心」が死語となりつつあるような時代に、座禅のようなルールがなく、指導者のモラルに全てがゆだねられ、適切なチェック機構がなければ、「強要された修行」の様相を帯びるのはそう難しいことではないと思います。そこに様々な感情が加われば、容易にエスカレートするでしょう。
僕は「修行」をしたことがないのでわかりませんが、自分の理解では、修行は心が折れて挫折したとしても、また一からやり直すことができるものだと思います。
でも修行と混同された指導にそれは許されません。
教育や指導においては、向上心を持たせ、強い精神力を育てることが目標であって、ハードワークはその仕上げに位置すべきものだと思います。
(指導する側は大変でしょうけれど)目標にいたる道程は人によりちがってもイイと思います。最終目標だって人によって違っていいと思います。
以前は、そういった多様性が存在する可能性は低かったのであろうと想像します。だから、その入り口から画一的な目標設定がなされ、ハードワークが設定され、身体的痛みを感じながら自分の居場所を確認するという、方法論が成り立ちえたのでしょう。
すべてがうまく機能した時には驚異的な成果を上げることができたのだろうと思います。(ただ、恐らくそのような場面では体罰は必要とされないだろうと想像します。)でも、そのような状況はまれであったのではないでしょうか。多くの人にとっては「修行の強要」となっていた可能性があると思います。
もう一つ、大切なポイントがあります。
そのような指導法は前時代的に思えますが、それがハバを利かせるためには、指導を受ける側もそれをありがたがっていた部分があるに違いないと思うのです。
指導者にお任せすると言う意識です。あの人に任せておけば、言う通りにしていれば間違いない、そう言う指導者依存の意識です。そう言う意識の人たちからは前時代的指導法に反対する声は出てこないはずです。そういう人が一定数いなければ、体罰を伴う指導が高い評価を受けることはできなかったはずです。
前時代的指導法に最初に違和感を持った人たちは、自分で目標を設定し、必要な事を自律的に考え、体罰を受けずとも、自分の居場所と進むべき道を確認しようとする人たちだったのだろうと想像します。そしてそう言う人たちが無視できない数になってきたというのが今の時代なのでしょう。
本当に時代に合わなくなってきているのは、指導する側の、身体的苦痛にものを言わせようとする指導法だろうと思います。でも、本当にそれをなくすためには、指導者の意識改革のみでは不十分だと思うのです。
指導を受ける側も、他者依存的な姿勢から脱皮して自律的な考え方へと脱皮する必要があるような気がします。
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