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3.「がん告知」の是非 ●無告知のデメリット

 非A非B型の慢性肝炎と紹介されて以来、外来で治療を続けていた71歳のKさんは、1979年11月の超音波検査で肝細胞がんが発見された。診断を確定するために、2泊3日の入院で肝動脈撮影を行った。本人は、がんならば現職を退き、奥さんを連れてヨーロッパ旅行に行ってきてから治療を受けたいと話しておられた。奥さんはがんの告知に同意していた。

 肝動脈撮影が終了した夜、奥さんと初対面の長男に検査結果を説明した。肝細胞がんは肝臓内に2つできていた。がんの直径は3cm以下であったが、その存在部位から2つのがんを取る手術は必ずしも容易ではないと考えられた。私は本人の希望がかなえられるよう告知を勧めたが、長男は強硬に反対した。私には歯の立たない論客であった。お母さんも説得された。結局、患者さんには肝海綿状血管種と説明した。患者さんは喜んで退院された。

 経過中の一時期に行われた制がん剤療法は無効と判定された。結局患者さんは、海外旅行をすることもなく、2年6カ月後に肝細胞がんの破裂による腹腔内出血で死亡された。現職のままであった。私には主治医として、空虚な気持ちを残す死であった。長男に押されて「がんの告知」を避けたことが悔やまれた。当時は日常の診療行為の中で、患者さんのQOLや基本的人権の問題を意識することはなかったが、もう少し患者さん本人に照準を絞った医療をすべきであると反省した。患者さんは日頃私には心を開いて下さっていると感じていただけに、その思いは強かった。

 1984年9月に胃がんの再発で、左頸部にリンパ腺に転移した86歳のHさんが入院してこられた。年を感じさせないほど頭の回転ははやく、歯切れの良い会話を好む江戸っ子のおばあさんだった。耳も良く聞こえた。お年寄りに今さらという家族の反対で告知をしていなかったが、がんの再発であると確信している様子で、病名に関する私の説明には納得しなかった。私に対しても、もう人生には未練はないとよく話していた。補液などの治療も拒否し、薬はいらないと、外科から紹介された時に服用していた制がん剤も中止した。朝夕の回診の時には、何時も取り払うことのできない心の溝を感じていた。

 ある時、用便に行く途中の廊下で転倒、意識を失った。血圧は下降していた。家族は病院の近くに住んでいたので、すぐに駆けつけてくれた。患者さんの日頃の言動から治療をせずに、そのまま経過を見るのも一つの選択かもしれないと考えたが、長男の希望に押されて、血圧を上げるために昇圧剤を入れた点滴を開始して、近親者が集まるのを待った。

 血圧が上昇し意識の戻った患者さんは、開口一番「せっかく楽になれそうだったのに」と立腹された。その後、主治医の私とは口をきかなくなった。私ばかりではなかった。長男やしばしば見舞ってくれていた胃切除術を担当した外科の主治医とも駄目であった。「男は皆うそつき」と決めつけた。自分の人格を無視された憤りであったのだろう。心の通わない医療ほどわびしいものはなかった。

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