1.私ののターミナル・ケアのはじまり ●内科医としての出発
1963年4月インターンをおえた私は内科学専攻の大学院生として千葉大学第一内科学教室に入局した。最初の1年間は医者としての臨床医学の実践的な訓練を受け、その後は大学病院における診療に従事しながら臨床医学の研究を3年間続ける予定であった。
当時の千葉大学第一内科学教室の主任教授は三輪清三先生で、人間性にあふれた包容力のある先生だった。先生からの直接の指示があったかどうかは記憶にないが、私の入局した頃には、重症患者を受け持った若い医師は病院に泊まり込んで治療にあたることが習慣となっていた。
私は最初から重症患者についていた。同じ医局に入局した仲間9人のうち、最初に臨死患者を経験したのも私だった。
私生活のことに触れ恐縮であるが、私は入局の翌年4月に結婚した。茨城で行われたその結納式の時間帯には千葉大学病理学教室で2例目の病理解剖に主治医として立ち会っていた。その日に予定していた結婚指輪の購入も父親に任せた。その上に、結婚休暇が明けて最初に受け持った腹水の患者さんは、進行胃がんによるがん性腹膜炎と診断され、まもなく重症となり、私は泊まり込みの生活に入った。自信のない新米医師である私は状況判断を誤ったようで、泊まり込みの生活は長引いた。同情した先輩医師や主任看護婦さんは「今夜は大丈夫だと思うよ」と帰宅を勧めてくれた。好意に甘え、何回か終電で船橋市のアパートに帰ったことを記憶している。
このように、入局後の約1年の間に3人の死に主治医として立ち会った。当時の千葉大学第一内科学教室において、新人医局員で3人の死亡は多い方であった。私の内科医としての人生は治せない医者として始まったのであった。
« はじめに | トップページ | 1.私ののターミナル・ケアのはじまり ●1963年前後のがん患者のターミナル・ケア »
最近のコメント