_

関連

無料ブログはココログ

« 5.現実と理想の狭間で ●現実から離れてゆく理想論 | トップページ | 6.患者さんの死から学ぶ 1 »

5.現実と理想の狭間で ●終末期にある自分を受容できる条件

 人の「生」も「死」も自然現象の一つであるとの一般論に疑問を挟む人はいないであろう。どのような条件が整えば自分の死を自然現象の一つとして認識することができるのであろうか。

 私は一度死を予感したことがあった。肺結核で入院治療中に肋膜炎を合併して、39度以上の高熱が続いた時のことである。昭和31年4月のことであった。毎日のごとくに検査をしてもなかなか原因はつかめなかったが、遅れて胸水が出現、肋膜炎の併発と診断された。当時は既に抗結核剤が開発され、肺結核は治る時代に入りつつあったが、まだ死亡する可能性のある病気であると思っていた。ある夜、体温計は40度以上を示していた。解熱剤をもらおうと思い看護婦当直室のドアを叩いたが、若い看護婦は熟睡していてなかなか起きてくれなかった。あきらめて、2階の病室に戻ろうと階段を上っている時に気を失った。幸い怪我はなく、階段に横たわってふるえている自分に気づき部屋に戻った。その時、ふと今夜は死ぬかもしれないと感じた。それほど悲壮感や恐怖感はなかった。私物を入れている棚を整理し、書きかけの手紙を破り床についた。翌朝、目を覚まし、ああ生きていたと思った。ただそれだけであった。当時の私は、肺結核は死病であるとの認識をもっていたことや、小説などの影響で肺結核死を美化する傾向が強かったので、死を受容できる状態にあったのではないかと思う。

 表9に末期状態にある自分を容認できる条件をまとめた。私の経験にもとづく私見である。一般に、不治の病にある自分を受け入れるためには、自分の病気が最先端の医療技術をもってしても治らない状態にあることを認めることが必要条件となる。そのために我々は、最先端の医療を実行すると共に、十分なインフォームド・コンセントを実行しながら、医学の現状を理解してもらう必要がある。

 しかし、現実はそれほど単純なものではない。なかなか、死が避けられない状態にある自分を認めることのできない人も少なくない。特に、診断や治療の過程に問題があった患者さんの場合には深刻である。痛みや体重減少などの症状のため、がんを心配して病院を訪れ、診断を求めたにもかかわらず、症状を裏づける臨床検査所見がないから精神的な問題であろうとされていたが、最終的には手術不能ながんと診断された患者さんたちである。原発がんの場合には膵臓がん、再発・転移がんでは後腹膜リンパ腺転移の症例に多い。上腹部や背部の漠然とした重圧感を初発症状とした患者さんたちで、あの時に正しい診断を受け、直ちに治療に入っていれば今頃は治っていたのにと、患者さんの思考は何時もそこに収束して進展しないまま、悶々とした療養生活を送ることになるのである。誤診は避けなければいけない医療の鉄則である。

 質の高いケアを行うことにより相互の信頼関係を確立し、家族と共に十分なサポートを実行することが、患者さんの現状容認を早める大きな力となる。

 健康な時から楽しみながら生活をする習慣も、終末期のQOLの維持に関係する。定年後に夢見ていた「ゆとりある生活」が、その直前に病魔に倒れたために霧散してしまった例は数限りなくある。残された家族にとっても無念の思いはなかなか消えない。仕事も楽しみも、特に50歳過ぎてからの計画は先送りをしないことである。

 充実した人生を送り、自分の人生に満足しながらこの世を去ることができれば、これに優る幸はないと思われる。

*岡崎伸生:がん患者のQOLと心身のサポート。あいみっく、13:17、1992.

表9 がん末期状態にある自分を容認できる条件
1.現在の医療技術では治癒不能であるとの認識
2.発病以来の治療経過に不満がないこと(十分な医療を受けてきたとの認識)
3.現在受けている医療に対する満足感(質の高いケア)
4.医療チームとの間に信頼関係が確立していること
5.家族のサポートがあること
6.過去の人生に対する満足感
(岡崎:あいみっく、13:178、1992)

« 5.現実と理想の狭間で ●現実から離れてゆく理想論 | トップページ | 6.患者さんの死から学ぶ 1 »