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7.国立がんセンター総長の死 ●塚本憲甫先生の死

 最近、塚本哲也氏から文春文庫『ガンと戦った昭和史、塚本憲甫と医師たち』をお送りいただいた。1981年に出版された同名の著書の文庫版である。服部信先生を補佐し塚本先生の終末期医療の場に同席させていただいた時のことが昨日のことのように思い出された。塚本哲也氏は国立がんセンター第4代総長塚本憲甫先生の娘婿で、そのお人柄のにじみ出た文章も懐かしかった。

 塚本先生は、私が国立がんセンター病院に奉職した1969年4月には病院長であった。その年の5月の終わりか6月の上旬のことと思うが、腹腔鏡検査が終わって手術室を歩いていると塚本先生に声をかけられて恐縮したことがあった。「君ゴルフを始めたんだって」と。当時国立がんセンター病院にいた大学の同級生が歓迎ゴルフコンペを開いてくれたことが聞こえたようだった。その場に居合わせた先輩医師たちは、塚本先生はこれで最下位脱出、ブービー賞確実と思って喜んでおられるのではないか、と陰口をたたいて喜んでいた。好感を持って受け入れられている院長だな、と親しみを感じた。残念ながら私のゴルフはそれが最初で最後であった。

 これも手術室で腹腔鏡検査をしている時のことである。「服部さん、私にも一寸見せて下さいよ」と塚本先生が入ってこられた。服部先生の説明を受けた後、腹腔鏡を手にしてすぐ塚本先生は「これがligamentum rotundumですか」と質問されたのを聞いて驚いた。ligamentum rotundumは肝円靱帯のラテン語で、玄人のする質問と感じたのであった。放射線治療を専門とされる塚本先生が、人体各部位の解剖に通じていることは当然のこととは思うが、そのオリエンテーションの良さは抜群であると感じた。治療効果をできうる限り客観的に捉えながら放射線療法を実行しておられると聞いていた。カルテにはがん病巣のスケッチに加え、病理組織検査をした部位などが克明に記載されていたという。先生の医療に対する科学的な姿勢に触れたような気がした。

 塚本憲甫先生は総長在職中の1973年12月3日、胃がんの手術を受けられた。胃がんという病名は知っておられたが、開腹手術時には既に肝臓と肺に転移のあったことは伏せられていた。翌年の4月1日の再入院は、肝転移巣が悪化し、終末期に入ったと判断されたためであった。先生には慢性肝炎と説明されていた。

 入院されて間もなく、服部先生と回診に行くと、先生はいつものように診察しやすいように腹部を出された。そこには大きくなった肝臓の辺縁がマジックインキで黒々と書かれていた。「肝臓の大きさがわかるように書いておいたよ、クックックッ」と小さな声で屈託なく笑われた。先生はきわどい冗談をいって「クックックッ」と笑われる癖があった。その後に知ったことだが、先生が心を許しておられた食道外科の飯塚紀文先生には「服部君にこの肝臓転移が治せるかね」と冗談をいわれたという。塚本先生は、ご自分の病気を正確に知っておられたのであった。当時、転移性肝がんに有効な治療法はなかった。

*塚本憲甫追憶集刊行会:塚本憲甫—塚本憲甫追憶集、1975.

 服部先生は「日曜日には点滴に伺いますから」と、終末には毎週外泊を勧められた。東京国立第二病院の敷地の中にある宿舎に住んでいた服部先生と私は、日曜日になると上馬の塚本先生宅に点滴に出かけた。ある時、点滴針を刺し終わった私に「3月末にね、朝日新聞の天声人語氏ががんの告知について電話をかけてきてね」と声をかけられた。そして「がんの告知の問題は基本的にはケースバイケースで処理しなければいけないが、告知しない方が当人の幸せだと思う」という内容のことを話された。

 先生は、控え目ではあるが「がんの告知」には反対であった。先にも触れたように、ご自分の病気についてはほぼ正確に把握されていて、隠されていることを冗談の材料にしておられた。しかし、病気の進行状態やその時々の病態について直接的な質問をされることはなかった。がん告知に反対だからこそ、この問題で主治医を困らせることを避けられたのではないかと思った。

 ただ入院されてから何回か「岡崎君、あれ黄疸尿?」と蓄尿瓶に溜めてある尿について質問を受けた。しかし、誰の目にもわかるような黄疸尿になってからは、その質問はやんだ。そして、6月2日に銀座教会の鵜飼勇牧師から洗礼を受けられた。黄疸が転移性肝がんの重要な予後因子であることを知っておられた先生は、黄疸の出現の有無でご自分の死期を予測しようとされていたのではないかと思った。その頃まとめたデータによると、転移性肝がんで黄疸が出始めたら1カ月以内に死亡する可能性が高かった。

*岡崎伸生、他:転移性癌による肝外閉塞性黄疸、肝臓、12:248、1971.

先生は1974年6月6日の午前中に吐血をされた。服部先生は外来診察中で私より少し遅れて病室に来られた。「服部君がなかなか来てくれないので血を吐いたよ」と小さい声でいわれた。私にはそう聞こえた。その後に「クックックッ」と笑われたのであろうが、声にはならなかった。私には先生の最期の冗談に聞こえた。先生は翌朝6時32分に亡くなられた。5月7日から東京国立第二病院に入院されていた年子夫人は、約2週間後の6月20日に先生の後を追うように他界された。がん告知に反対意見を持っておられた先生は、がんを知らない患者になろうと努力された。

*塚本哲也:ガンと戦った昭和史、塚本憲甫と医師たち、文春文庫、1981.

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