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3.「がん告知」の是非 ●東南アジアの将軍

 ある東南アジアの国の将軍の例である。1975年2月12日、47歳の将軍が入院してこられた。母国での診断は肝細胞がんで、国立がんセンター病院での手術を勧められて来日した。病名は正確には伝えられていなかった。母国から付き添ってきた主治医が、医学的な話し合いの時には立ち会ってくれた。病気の診断と治療方針を立てる目的で行った検査は、肝シンチグラフィー、肝動脈造影、腹腔鏡検査などで、約10日間の入院であった。

 当時はまだ、CT診断装置やリアルタイムの超音波診断装置は普及しておらず、現在と同じレベルの画像診断はできなかったが、肝細胞がんの占拠部位が肝全体の2/3以下で、肝硬変症の程度が軽く、門脈に腫瘍塞栓がなければ、がんはいくら大きくても外科医に肝切除術をお願いしようと考えていた。このような思想で肝細胞がんの診療に従事し、初めて外科手術に成功したのは、将軍が帰国されてから8カ月後に入院してこられたIさんの例で、将軍と同じく47歳であった。切除された肝臓はがんを含めて約2kgであった。当時の国立がんセンター病院の外科では、小児肝がんの手術ですでに実績のあった長谷川博先生が、大人の肝細胞がんの治療にも積極的に関与し始めていた頃であった。

 将軍の病気は母国での診断通りB型肝炎ウイルス感染を原因とする肝硬変症に合併した肝細胞がんであったが、がんは肝臓の2/3以上を占める大きさで、肝内転移も疑われたため肝切除術は不可能と診断された。全身性の制がん剤療法が、安全に行える唯一の治療方法と推定されたが、その期待される有効率は10%以下であった。

 母国から付き添ってきた主治医と相談した結果、私が検査結果と治療方針のすべてを患者さん本人に説明することになった。がんの告知は、患者さんの母国でも、当時の日本と同様に一般的ではないとのことであったが、将軍はがんならば告知をして欲しいと希望しておられた。

 告知の際には、夫人、付き添いの主治医、それに日本駐在の大使館員が立ち会い通訳もしてくれた。私はまず事務的に、肝硬変症に合併した肝細胞がんであること、病気が相当に進行しているので肝切除術は無理であること、さらに制がん剤による治療の効果もあまり期待できないことなどを日本語で説明した。そして最後に、「I’m sorry」とせっかく来日されたのに、希望の治療が受けられないことに対する私の心情を述べた。

 すると将軍は、「I’ts my problem」と私に気遣いながら検査を受けたことに対する感謝の言葉を述べるとともに、病状、治療方針、および予後等についての2、3の質問を続けた。

 その後、夫人、主治医、および大使館員と母国語で言葉を交わしていた。相談されたのであろう。帰国して母国で治療を受けることにしたいと申し出た。死が避けられない病にあるのは、「I’ts my problem」と自分自身であることを認識し、医師や大使館員の助言を受けて行動しなければならない事柄と、自分自身で決めなければならない事柄とを、瞬間的に把握された様子であった。心の準備があったのかも知れないが、その見事な対応と穏やかな表情は、今も忘れることができない。

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