7.国立がんセンター総長の死 ●石川七郎先生の死
中原和郎先生の跡を継いで第6代の国立がんセンター総長に就任されたのは、肺外科を専門とされる石川七郎先生であった。国立がんセンター病院に奉職して間もなく、当時副院長でおられた石川七郎先生から「おい肝臓、元気か」と声をかけられた。おそらく名前を思い出せなくて咄嗟にでたのであろうが、大変に親しみを覚えた。それから私のことを「おい肝臓」と呼ぶことがしばらく習慣となった。
1984年に引退して名誉総長となられた石川七郎先生は、その翌年に肝細胞がんになられた。肺結核の手術の時に受けた輸血が原因で非A非B型の肝硬変症になり、そこに肝細胞がんができたのであった。合併している肝硬変症が重篤であったため手術不能と診断された。先生ご自身は、手術がベストの治療法と信じておられたので、後輩の肝臓外科医である長谷川博先生に身を任せようとまず考えられたのであった。末舛恵一先生の勧めで肝動脈塞栓術を受けられた後、主として内科的に経過を見ることになった。
石川七郎先生には病気のことはすべて正確にお話ししてあった。先生は肝細胞がんの治療については、いろいろ論文もお読みになっておられるようであった。肝細胞がんの制がん剤療法や放射線療法の現状についての質問を受けたことを記憶している。また、かつて先生のご紹介で治療した肝細胞がんの患者さんの件も話題となった。スライドにしていた資料を名誉総長室にお届けしたこともあった。何時も先生のご質問は直接的であった。「ほんとに効くの」、「副作用はないの」、「効果の判定は何時するの」、「効果の判定は何でするの」、「末期の人は耐えられないのじゃないの」。医療における最終意志決定者は自分と了解しておられるようであった。
美代子夫人の観察によると、ターミナル・ケアに関心をもたれたのは総長になられてからだという。先生は、総長時代の1981年に厚生省がん研究助成金の研究課題に「晩期がん患者の精神的および肉体的苦痛緩和(terminal care)に関する研究」を取り上げられた。この研究報告会で、終末期がん患者の除痛のために脳の手術をして効果があったとの研究発表に、本末転倒だと激しい口調で発言された。先生のターミナル・ケアに関する関心の深さを示すエピソードであった。
私は先生のがん告知についての考えを聞いた記憶はない。塚本憲甫先生の肝転移の告知に反対された石川先生も、少なくともご自分が肝細胞がんになられた頃には、ケースバイケースではあるが可能な限り本人に告知すべきという考えを持っておられたのではないかと推測する。ご自分の件では、がん告知は当然のプロセスと思っておられた。検査成績もご自分で確認された。最後のCT検査の時などは、撮影終了後CTの操作室に「結果を教えてよ」と入ってこられた。病変は明らかに進化していた。「そうだろうな、AFPが高くなっているんだもの」と平然としておられた。そして、部屋を出られる時「会計伝票は」時かれた。私は気を利かしたつもりで「伝票は私が処理するから」と担当者に話しておいたが、石川先生は「そのくらい自分でするよ」と会計の窓口の列に加わられた。
先生は肝細胞がんになってからも仕事を続けられた。がんセンター内の研究会にも出席された。ターミナル・ケア研究会に出席されたこともある。美代子夫人と共にホスピス設立運動にも積極的に参画しておられたという。この間、「よりよい死とは…」とのタイトルで小論文を書いておられる。先生のターミナル・ケアに関する思想を示す部分を引用させていただく。
「癌が進んで治療の手段がない、とわかった人には、対症的な治療(とくに鎮痛)はやるが、積極的な(化学療法または放射線治療、中心静脈栄養など)は行わない。」
「治療を続けるか、全く自然経過にまかせるかは、患者(家人)との了解で決めるべきである。」
「意識朦朧となった人に化療・放療を続けるとか、死ぬまで中心静脈栄養をやったというのは、患者に対する冒涜であろう。」
「ケアの実際を考えると、末期患者は、不安、癌と知った時の怒り、抑うつ、あきらめに悩むことが多い。さらに、これらの精神症状だけでなく、その生き方、死に方に対する考え方、特に家族との情趣など、精神は揺れ動いているので…」
と、人対人のケアの重要性を説いておられる。この文章は、がん告知は当然の前提条件として、その後のケアの必要性を記載しているのである。
「その死に際まで、採血や検査をしたり、人工呼吸器や心マッサージをしたりする愚はやめたいと思う。」
*石川七郎:よりよい死とは…、医療’85、1:20、1985.
この論文は先生の追憶集『無影灯のもとに、元国立がんセンター名誉総長石川七郎先生を偲んで』で知った。私には、「無意味なことは要らないよ」、「最後は家でと思っている、何かあったらよろしく」とB5の無地の便箋に几帳面な字で地図を書いて下さった。今も大事にしている。
1979年に弟さんが肝細胞がんになられた時にも、手術が無理ならできる限り家で、と主張された。弟さんは、亡くなる前日に、歯科治療を受けて帰宅して間もなく、腹痛発作に見舞われて緊急入院、翌朝に亡くなられた。肝細胞がん破裂による腹腔内出血であった。
先生は正月をご家族と共にハワイで過ごしたり、ホスピスの設立運動を続けたり、表面的には穏やかに毎日を送っておられるようであったが、論文にも書いておられるように、精神的には必ずしも平坦ではなかった。親しい鎌倉の友人が急死された時などは、「ぼくも急死すればと思うことがあるよ」といわれた。
ご家族の問題で、精神的に最も衝撃を受けられたと感じたのは、妹さんが肝細胞がんの疑いで来院された時のことであった。ご自分で外来受診の手続きをし、診察室にも入ってこられた。そして超音波のモニターを注視しておられたが、部屋を出る時「HCCだな、ぼくに考えさせてよ」といわれた。
石川先生は1986年6月12日に自宅で吐血をして緊急入院された。私は甲府で行われた日本肝臓学会総会に出席していた。急いで病院に帰ると、止血をするために食道にチューブが挿入された先生は睡眠しておられた。来院時には血圧を測定した山口健先生に測定値を質問し、「その血圧では死ねねーな」と冗談をいわれたという。夜半に覚醒された先生はチューブの抜去を希望された。翌13日の早朝に恐る恐るチューブを抜去したが、幸い再出血はなかった。その後、美代子夫人の強い希望もあり16日に退院された。吐血後で意識は混濁しておられた。そして、先生の理想とされる在宅での心のこもった家族のケアを受けられた。医療面のケアには娘婿である東海大学外科田島知郎先生(当時助教授)があたられた。一時期、意識を取り戻した先生は、「これが本当のターミナル・ケアだね、ありがとう、ありがとう」と涙を流されたという。
*田島知郎:石川論文「よりよい死とは…」に寄せて。看護技術、32:1954、1986.
ターミナル・ケアの重要性を認識しておられた石川七郎先生は、家族に支えられたターミナル・ケアのあり方の一つをご自分で示された。美代子夫人との心の交流の産物でもある。
自宅で亡くなられた先生のご遺体は国立がんセンター病院に運ばれ、解剖された。
*石川先生の本出版記念会企画、石川美代子・石川光一編集発行:無影燈のもとに 元国立がんセンター名誉総長石川七郎を偲んで、1989.
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