_

関連

無料ブログはココログ

« 4.1981年頃からのターミナル・ケア ●進行がん患者に対する「がん告知」の評価5 | トップページ | 5.現実と理想の狭間で ●終末期にある自分を受容できる条件 »

5.現実と理想の狭間で ●現実から離れてゆく理想論

 1987年の日本癌学会の後、私はがん告知や終末期医療について総説を書く機会が多くなった。時には講演を依頼されることもあった。このようなことを重ねていくうちに、現実と理想論との区別がつかなくなっている自分を感じるようになった。

 私のターミナル・ケア論はもともと体験論であった。ケア・チームをつくろうと働きかけたことはなく、個々の症例について告知に耐えられるか否かを検討したこともなかった。患者さんや家族の希望によりがんを告知し、その場の雰囲気から予後の告知までしてしまったのが実状であった。病室で患者さんと話す時などは、立ったままであった。時間はかけたが、目線を合わせ、患者さんの手を握りながら話す習慣などは、日本人の私にはなかった。いわば私のターミナル・ケアは、「なるがままのターミナル・ケア」であった。

 しかし、論文を書くために、先人の業績を参考に理論武装をしようとすると、どろどろとした終末期医療の経験は形の整った理想論に変貌していくのだった。特に質疑応答はいけなかった。思わぬ質問に接し、思い浮かぶ答えは、自分の経験ではなく、先人の論文から得た理想論であることが少なくなかった。

 この頃に東京で開催された死の臨床研究会に出席したことがあった。そのころ私は死の臨床研究会にも入会し、ターミナル・ケアにもう少し深く関わっても良いと考えていた。在宅医療を展開しておられる東京の白十字診療所の佐藤智先生の、自宅で亡くなった患者さんの解剖記録の報告など、強く印象づけられる発表はいくつかあった。しかし、終末期医療のあり方に関するいくつかの議論にはついていけなかった。特に自分の理想論に酔って涙ながらに発言している姿には、何か危険性を感じた。

何事においても理想論を追うことのすばらしさは知っているつもりでいたが、ターミナル・ケアの場における生真面目な理想論の展開は、患者さんの自己主張を封じることにもなりかねない。もう少し「なるがままのターミナル・ケア」を実行し、この方面の学会活動からは離れていようと思った。そして、再び肝細胞がんの臨床的研究とターミナル・ケアの実践との二足の草鞋を履くことになった。

« 4.1981年頃からのターミナル・ケア ●進行がん患者に対する「がん告知」の評価5 | トップページ | 5.現実と理想の狭間で ●終末期にある自分を受容できる条件 »