2.1969年前後のターミナル・ケア ●末期がんの告知を経験する
Sさん(55歳)は1972年7月に胃がんの再発を原因とする閉塞性黄疸で入院してきた。胃がんの手術は国立がんセンター病院で受けた。会社の経営者であった。黄疸を取る目的で外科的な肝内胆管外瘻術を受け、その後に行った制がん剤療法が奏効して、患者さんは一時的にではあったが退院することができた。しかし、完治にはいたらず、間もなく左頸部のリンパ腺転移が出現し、外来通院のまま放射線療法を受けることになった。
ある日、国立がんセンター病院の廊下で、ご主人に付き添って病院にきていた奥さんに呼び止められた。「私たち夫婦は、がんになったらお互いに病気について話し合うことを約束していました。これまで悩んできましたが、約束を実行したいので、先生から主人に病気のことを正しく話していただけませんか」と、夫に対する「がんの告知」を求められた。その真剣な表情に押されて同意した。
日をあらためて内科外来の診察室で、手術以来の経過を記録しているカルテを一緒に見ながら、胃がんである病名と手術所見、前回の内科入院の原因となった黄疸は、肝門部リンパ腺に転移したがんによる閉塞性黄疸であったこととその後の治療経過、現在放射線療法中の左首のしこりもがんの転移であること、放射線療法により一時的に良くなっても治る可能性のないこと等を説明した。質問に答えるかたちで、言葉を選んで話したが、内容は厳しいものであった。私は極度に緊張していた。しかし、患者さんの反応は穏やかそのものであった。ショックを受けた様子はなかった。奥さんから予備知識を得ていたのかもしれないが、患者さんの対応は、私がそれまでに培ってきた常識論からは大きな隔たりを示していた。時折、患者さんと奥さんの交わす会話は夫婦の絆の太さを感じさせるものであった。その後、外来で放射線治療の順番を待っているSさん夫妻を見かけるたびにそこに「夫婦」が存在すると感じたものだった。
1973年9月に入院された63歳の大学教授のMさんの場合には、1人で回診をしている時に突然、「私はがんですよね」と同意を求められた。Mさんは打ち解けた感じで、よく田舎での生活や家族のこと等を話題にされ、私もMさんに心を開いていたためであろうか、自然に「ええ」と答えてしまった。Sさんと同じく胃がんの再発で閉塞性黄疸となり、黄疸を取る目的で行った肝内胆管外瘻術後の制がん剤療法中であった。胃がんの手術は国立がんセンター病院で受けていた。その後患者さんには記録室にきてもらい、これまでの治療歴が記載されているカルテを見ながら、正しい病名とこれまでの治療歴、現在の病状などを説明し、治る可能性はないと予後の質問にも正確に答えた。Mさんもショックを受けた様子は全く見せなかった。告知後のMさんは、校正段階に入っていた専門領域の教科書の完成作業に余念がなかった。
1975年5月1日に悪性胸腺腫瘍で入院された38歳の著述業の男性は、がんならばやり残したことがあるからと、自ら告知を希望された。胸腺腫瘍による上行大静脈症候群のため首から顔面にかけて浮腫があり、放射線療法中であった。過去の2例にならって、カルテを見ながら病名の告知と病状の説明をした。患者さんは切手の蒐集家で、高価な外国の切手を持っておられた。死が避けられないのならば、残される奥さんのために切手の整理をしておきたいと考えていたのだった。奥さんとの2人暮らしであった。
以上の3人は最後まで診療に従事させていただいた。当時は国立がんセンター病院でもがん告知を受けている患者さんは皆無に近かったので、病室でのがんについての質問、特に投与を受けている制がん剤に関する質問は控えてもらった。ご本人も楽ではない療養生活ではあったのであるが、3人とも同室の患者さんにも気を配って下さった。死期の到来を自覚されても、穏やかな療養生活であった。ただ、私にとっての心残りは、軽快して一時退院しておられたMさんが、入院待機患者さんの特に多い時に病状が悪化したため、なかなか入院ができなかったことである。緊急入院の体制が整っていなかったのである。ようやく入院ができ、病室で私と最初に交わした会話は、「先生、今度は麻薬をお願いいたします」であった。
「がん告知」の問題は自分で咀嚼し直す必要があると感じるようになった。
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