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2.1969年前後のターミナル・ケア ●「がんの告知」はしない

 私は1969年4月から有馬道雄先生の後任として国立がんセンター病院内科に奉職、消化器がん、特に肝臓がんを専門とする服部信先生の教えを受けることとなった。内科の最高責任者は制がん剤療法を専門とされる木村禧代二先生であった。私達の守備範囲は原発性肝がんと胆道がんであったが、転移性肝がんや原発巣のわからないがん患者も私達のグループでみることが多かった。

 私の新しい職場となった国立がんセンター病院消化器内科病棟には、私達の肝グループのほかに消化管のエックス線診断や内視鏡診断、および膵がんの専門家などが揃い、多くの同僚医師の関心は「がんの早期診断」にあった。特に、国立がんセンター病院における胃がんの研究グループは、早期胃がんの診断に関しては国際的にも注目されており、外国の研究者も頻繁に見学に訪れていた。

 私も皆の熱気に煽られ、肝臓がんの早期診断に寄与したいと考えていたが、現実は厳しかった。

 当時は原発性の肝臓がんや胆道がんの患者さんは少なく、それぞれ年間10例未満で、私達のグループの治療の対象となった患者さんの大部分は転移性肝がんなどの再発がんであった。いずれも自覚症状の出るのが遅い上に、有効な診断方法や治療方法も開発されていなかったので、大部分の患者さんは診断がついてから3カ月以内に死亡された。国立がんセンター病院に赴任して間もなく、あまりに忙しい毎日が続くので入退院記録を調べると、私が主治医となって治療した患者さんのうちでは、入院後1カ月以内に死亡退院された患者さんの数が最も多かった。私は国立がんセンター病院でも治せない医者としてスタートしたのであった。

 国立がんセンター病院に移っても、私の医療に対する基本姿勢は、千葉大学時代と変わらなかった。がんの告知はせず、患者さんの死期が近づくと病院に泊まり、死亡される時には全例立ち会おうと努力した。家族と看護婦、および私の三者で無告知同盟も結んで、「おしきせ医療」を展開した。

 私が国立がんセンター病院に奉職した1969年は、日本における「がん告知」の問題に関しての、記念すべき節目の年であった。第7回日本癌治療学会総会を主催された新潟大学外科堺哲朗教授は、ワークショップの一つに「がんの告知」の問題を取り上げられた。課題名は「癌患者にその癌を知らしむべきか」であった。がんに関連した医学会ではじめて「がん告知」の問題が議論されたのであった。社会的にも注目され、新聞やテレビでも報道された。後日に知ったことであるが、この時堺哲朗教授は胃がんで治療を受けておられたという。

 そのワークショップにおいては、患者、宗教家、および医事評論家で演者となられた方々は、「がんの告知」に賛成の意向を表明した。医師の代表の一人であった当時の国立がんセンター総長久留勝先生は、「死の宣告」に近いニュアンスをもつ「がんの告知」の問題が、公開の席上で議論されることに対し、現在がんで病床にある患者さんの心境に悪影響はないかと不安の情を述べるとともに、「限られた生命の患者に接した時には、その患者の精神を少しでも安定せしめ、肉体的のみならず精神的にも苦痛や苦悩から遠ざかれるよう、できるだけ努力すべきである」と、「がん告知」に反対の意見を述べられた。当時の臨床医にとっては、抵抗なく受け入れられる見解であったと思われる。三輪清三先生の教えを受けた私も同じ意見で、ワークショップ後の一時期、私は受け持ちの患者さんから病名について質問を受けるのではないかと不安であった。久留先生は翌年肺結核で他界された。

 国立がんセンター病院においては、がんの告知に関する申し合わせ事項はなかった。しかし、癌治療学会での久留勝総長の発言を掲載した日本医師会雑誌の別刷は、総合医局に積み上げられたが、瞬く間になくなった。多くの医局員は自室に持ち帰り、目を通していたものと思われる。その後に医局員から久留総長の見解に対する反論を聞いた記憶はない。ただ、乳がんのホルモン療法を専門とされていた熊岡爽一先生は、患者さんに質問されれば、がんという病名も正確に答えておられるようだった。がん治療学会に出席し「がん告知」に対する賛成論を展開された胃がんの患者さんは熊岡先生が治療をしておられた方であった。私の出入りしていた消化器内科病棟では、がん告知を受けた患者さんは皆無に近かった。
*久留勝:癌患者にその癌をしらしむべきか、日医会誌、62:724〜727、1969.

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