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1.私ののターミナル・ケアのはじまり ●1963年前後のがん患者のターミナル・ケア

 私が医師免許証を手にした1963年頃は、「がんの告知」は「死の宣告」と同じであるから避けるようにと指導されていた。

 三輪清三先生は、恩師の千葉大学第一内科二代目教授石川憲夫先生が肺がんで入院された時に、がんの告知の問題で大変なやまれたという。1963年のことである。先生は後に出版された『三輪清三名誉教授研究業績集』の序文「感謝の言葉」にその時のことを次のように記述しておられる。

 「先生は肺癌で亡くなられたのであったが、私は最後迄その事を先生に告げなかった事は心苦しかったが、告別式の弔辞の中で、私は臨床家として『患者に不治を識らしむべからず』という教えを実行したことを、先生の霊前に涙ながらのお詫びを申し上げたことは忘れられない。」
*千葉大学医学部第一内科同門会三輪清三名誉教授研究業績集出版記念会:三輪清三名誉教授研究業績集、1983年

実際に当時の内科に入院してくる「がん」の患者さんの大部分は死亡して退院された。「がん=死」との認識に異論を挟む人はなかった時代であった。

 禅宗の高僧に、本人の求めに応じて胃がんという病名を伝えたら、その後は急に食欲がなくなり、死期を早める結果となったという話は当時からあった。正しい病名は家族にのみ説明されていたが、家族でも女性や子供は、感情を抑えられずに涙を流して、患者さん本人に気づかれる結果となるからと、「がん」という病名は責任者となれる立場にある男性の親族を呼んで「告知」するようにとも注意されていた。

 千葉大学第一内科学教室に入局してからの約一年間に私が主治医として看取った3名の患者さんの病名は、悪性高血圧、腎臓がん、および胃がんであった。私は教室の教えを守り、「がんの告知」はしなかった。「良性で治る病気」と説明し、重症になると「今が一番辛い時です。この極期を乗り切れば、病気は回復期に入り、苦痛はとれて急に楽になるでしょう」と、家族や看護婦と共に患者さんを励ました。そして、一寸でも苦痛が軽減したり、食事の量が増えたりすれば「良くなる兆しが出てきましたね」と、患者さんが生に対する希望を捨てないように詭弁を弄した。

 当時の千葉大学第一内科では、新入医局員の受け持ち患者数は2名前後で、決められた指導医(オーベンといった)のもとで、診療にあたった。新入医局員の義務は、病室での診療のほかに、外来診察の補助(ベシュライバーといった)や臨床検査の仕事が割り当てられていたが、重症の患者さんにかけられる時間は十分にあった。当時は千葉大学病院でも中央検査部が稼働し始めた時で、臨床検査の仕事は新入医局員から臨床検査技師に移りつつあった。したがって、先輩の医師達が新入医局員として教育を受けた頃よりも、私たちには時間の余裕があったのである。

 新米医者の私は、医療行為のすべてに自信がなかった。医学的な問題ではオーベンの助言に従った。ケアの問題では看護婦に相談した。家族ともよく話し合った。どうしてそうなったのか理由は思い出せないが、家族との話し合いの場には、看護婦も同席してもらうことが多かった。

 患者さんの病状が重くなればなるほど、三者の話し合いの回数は増えた。時間もたっぷりかけた。オーベンの「家族にも良く話しておいて」との一言から出発したことと思うが、新米医者の私は、三者の話し合いの場に、自らの不安の解消を求めたのかもしれない。

 今から振り返ると、それは自然発生的に生まれたターミナル・ケア・チームともいえるが、今日的なターミナル・ケア・チームとは本質的に異なるものであった。

 医師、看護婦、および家族の三者で話し合った内容は、病名や病気の進行程度、現在ある苦痛の原因、治療方針、予後の見通し等であった。病名を知らせる親戚・縁者や知人の範囲を家族から指定されることもあった。そして多くの場合、患者さん本人に対する病名や病状等に関する説明の口裏合わせをして、話し合いは終わった。患者さんのためにとった善意の行為ではあったが、患者さんにとっては「お仕着せのターミナル・ケア」を受けさせる結果となったのである。「おまかせ医療」が行われるであろうことを前提とした、パターナリズム(親権主義)の世界であった。穿った見方をすれば、医者と看護婦、および家族の三者の秘密結社であった。すなわち病名の秘密を守るために結束してできたターミナル・ケア・チームであったのである。

 それでも、頻回に行われた医師、看護婦、および家族との話し合いの結果、三者間には信頼関係が育まれた。家族と医者との間に心の交流ができたことは、患者さんにも敏感に伝わり、診療行為はスムーズに流れる結果となった。患者さんと我々医療スタッフとの間にトラブルが起こることはなかった。患者さんから病名に関する質問をうけて、返答に困った記憶もない。

 今日的なターミナル・ケア・チームとのもう一つの違いは、経験の浅い主治医もケアの対象であったことである。内科学の教科書には、死亡時期の予測方法、死戦期に現れる症状や、それらに対する治療の仕方等に関する詳細な記載はなく、新米主治医にとっては「これから起こる事態に対する不安」が、大きくのしかかっていたのである。緊張している主治医に対して先輩医師や看護婦ばかりではなく患者さんの家族も、時々自宅に帰って休養をとるようにと声をかけてくれた。オーベンの重田英夫先生にも心配してもらった。先生は「あぶないです」と連絡すると、休日で自宅にいる時も、すぐ病院に飛んできてくれた。床屋を中断して、頭髪の一部を刈り残したまま来られたこともあった。

 ただ、しばしば「あぶないです」を繰り返したため、その効力は次第に低下していった。特に家族の反応は敏感だった。回を重ねるごとに、家族の集合には時間がかかり、集まる家族の数も減った。内心では「信用されなくなったな」と心配であったが、信用されなくなったのは、私の予後の見通しに関する実力のみのようで、人間関係が破綻するようなことはなかった。3例とも家族全員一致で病理解剖に協力していただいた。

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