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「いじめ」をなくすことは難しいかも知れないけれど、減らすために各自できることはあるような気がする。。

今年は「いじめ問題」が大きくクローズアップされた年のように感じます。報道を目にするたびに心が痛みます。ただ、この問題は、何年かごと、周期的に問題が取り上げられていることにモヤモヤしたものを感じます。

1970年代、僕が中学生だった頃にも「いじめ」による自殺が問題になりました。学校集会が開かれたことも覚えています。

今は、マスコミを通じて有名人のメッセージが投げかけられたり、学校や教育委員会の対応が見直されたり、社会の認知も含め、少しずつでも進歩しているのだろうと思います。思いたいです。

でも、一方で、残念ながら、僕の中学時代から30年以上たった今でも問題がなくなっていないことは間違いありません。

同時に、報道を見聞きしていて、違和感を感じる事があります。何にかというと、「いじめ」という言葉そのものに、です。

今、「いじめ」は犯罪だと言われます。その通りだと思います。でも、犯罪ではない「いじめ」もあります。

たとえば、幼児同士のけんかなどで、明らかに勝敗が決しているにもかかわらず、子供が攻撃をやめない場合、「いじめちゃダメだよ」といいながらとめに入ります。子供社会の中で、「いじめる」側と「いじめられる」側が入れ替わるような、一時的な軋轢のようなものもあります。

「いじめ」という行為には、幼児性を多分に含んだ犯罪性の乏しいものから、明らかに犯罪として考えねばならないようなものまで、大変広い内容を含んでいます。

そのうえで、「いじめ」として分類されるための共通項があります。それは、僕が思うに、犯罪のもととなる心理に、まっとうな想像力の欠如と、幼児性とが同時に存在していることです。

もしかすると、猫が捕らえたネズミをいたぶるような感覚はそれに近いものかも知れません。被害者へ影響を想像することによって快感を得てしまっていることすらあるでしょう。

そして「いじめ」の標的が固定され、長期間にわたり、激しさを増していけば、犯罪性が高まっていきます。けれどもその境界は曖昧なものなのだろうと僕は想像します。

だとすれば、この種の事件を完全になくすことは難しいと思います。

でも、少なくすることや、事件の凶悪化を防ぐことはできるでしょう。だから僕たちは、それを目標として考え続けることが大切だと思います。

いびつな想像力と幼児性の併存によって子供が危険にさらされる犯罪が、「いじめ」の他にもうひとつあります。「いたずら」という言葉で表現される、小児への性的虐待です。

犯罪者の多くは男性成人で女の子が被害者になることが多いものです。

犯人はいつも

「いたずらしようと思った」

と供述します。

あまりおおざっぱな議論はよろしくないし、「いじめ」「いたずら」が別の問題であることも理解しているつもりです。ただ共通しているところもあるような気がします。

そしてこの共通項は僕たちのカルチャーの一部につながるものではないかと、僕は思っています。

「いじめ」の加害者となる多くは普通の子どもたちですし、「いたずら」の犯人達だって、多くは日本のカルチャーの影響下で育てられてきた人間です。

さらに、これらの犯罪を表現する言葉に、日本人は、「いじめ」とか「いたずら」など、子供の行動を表わす言葉を適応してきました。

調べたわけではありませんが、子供に対する性的虐待をあらわすために「いたずら」の訳語を用いる欧米の言語は存在しないのではないかと思います。

弱者やマイノリティに対するハラスメントを幼児性と結びつけ、正当化しないまでも、犯罪として軽視するカルチャーがなかったか、、、。

「いじめ」「いたずら」といった言葉はこの種の犯罪の本質をついている一方で、これらの言葉が使われることで、社会の中で軽く扱う傾向はなかったか、、、、。

個人的にはそんなことを考えてしまいます。

そして同じ精神性は、今でも、大人の間にも存在していないでしょうか。

権利が平等であることと、皆が似ていることとはき違え、異なることを許さない議論はよく聞かれます。

さらに、自分に正義があると信じたときには、相手をギリギリまで追いつめ、攻撃し続けます。

そんな場面に遭遇することは、決してまれではありません。攻撃し、追いつめて行くその瞬間、その奥底には「いじめ」や「いたずら」と同様の精神的側面が潜んでいないでしょうか。

先にも書いた通り、「いじめ」や「いたずら」の根源が、幼児性に起因するものであったり、肉食動物の行動に例えられたりするのであれば、それは本能的なものかも知れません。なくなる事はないでしょう。

でも、それを許容したり、強調したり、抑制したりするのはカルチャーだと思います。

だから、この点において、カルチャーを変えていく努力が必要なのではないかと思います。僕は二つのことが必要だと思います。

一つは新しい言葉です。

「いじめ」や「いたずら」を犯罪として表現する場合、別の言葉を用いることが望ましいと思います。

些末なことのように聞こえるかも知れなません。

でも、大人の世界におけるセクシャルハラスメントや、パワーハラスメントを考えてみてください。これらは当然、昔からあったはずです。けれども、「セクハラ」「パワハラ」という言葉ができることにより、多くのヒトが認識しやすくなりました。

ストーカー行為なんていうのもそうだと思います。

言葉による意識化の影響は、気がつかないうちに広まって、無視できない効果をもたらすことが可能です。

「いじめ」や「いたずら」についても、グレーゾーンを含まない犯罪行為を表現する言葉があった方がいいように思います。

「いじめ」という言葉はもう、それに近い意味を内包しつつあると感じています。

でも、最初に書いたように「いじめによる自殺」なんて1970年代から問題になっています。過去数十年にわたって一定の間隔をおいて社会問題となり、今でも解決していないのです。

ならば、「いじめ」=「bullying」などという英語訳を与えるだけもいいです。あえて言葉として分離することで、犯罪性のある「いじめ」の意識化を加速することが期待できるのではないでしょうか。

「いたずら」であれれば、「いたずら」=「性的虐待」=「sexal abuse」ということになりましょうか。

もう一つは、子どもたちへの教育、接し方について、根本的なところから見直すことも大切なのではないかと思のです。

昔、「しつけは押しつけでいい」という言葉がありました。最近僕は、それは良くないと思うようになりました。

押しつけただけでは、自分で考える習慣がつかないかも知れないからです。子供に行動規範を教える時、周囲への影響を想像できる力を育むことが大切なのだと思います。

「いじめ」や「いたずら」が、相手のことを考えず、ルールに従うことだけを要求されて育った場合の、歪んだ結果のように思うのは、想像力がたくましすぎるでしょうか。

「ルールとマナーを守りましょう」という標語を目にすることがよくあります。でもルールとマナーの違いを説明された経験は、僕は日本ではいっさいありません。

以前、米国の子供番組で、マナーについて説明していたのを見て、ハッとしました。

曰く、

「マナーには良いマナーと悪いマナーがある。良いマナーは、周りの人に自分が気を使っていることを示す行動。悪いマナーでは、周りの人に自分が気を使っていないことが示される。」

ルールはルール。守らねばならない。でも、マナーはルールと違うので、イロイロな「良いマナー」があり得るはずです。

より良いマナーを自分で考えることが大切。

そう言う想像力を健康に育むことが、めぐりめぐって、「いじめ」=「bullying」を社会全体で減らすことにつながると思いたいです。

こう言ったことに即効性はありません。成果も測定しづらいものでしょう。

なんとか対策協議会とかを立ち上げて、予防のための制度をつくっていくことの方が、目に見える成果は上がりやすいでしょう。

でもそれだけでは同じことの繰り返しだと思います。

制度は疲弊します。記憶は風化します。

制度に頼らずに、「いじめ」=「bullying」や「いたずら」=「sexal abuse」の少ない社会をつくるには、自分たちがどうしたらいいのか。

そう言うことを、みんながそれぞれに考える。他人事でなく。

僕はそれがいいと思います。

そしてそれぞれの考えを少しずつでも実践していく。そしてみんなで社会全体を良くしていく。

そうでないと、何年かたって、また同じ悲劇が繰り返されるような気がしてしまうのです。

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