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今朝の『NHK 視点・論点「小児の脳死臓器提供~その次に見えるもの~」』で感じたこと。

大学同期の植田育也先生(静岡県立こども病院小児集中治療センター長)が今朝のNHK 視点・論点「小児の脳死臓器提供~その次に見えるもの~」に出演し、約10分間にわたって語りました。

僕は臓器移植を専門とするわけではないのですが、肝臓を専門として診療するなかで臓器移植をうける患者さんに関わったこともあり、感じるところがあったので、忘れぬうちに感想を記しておきたいと思います。

彼は小児の救命救急を専門としていますので、彼の主張は、まず、NICUとICUの間をつなぐPICU(小児集中治療室)の全国レベルでの整備がまず大切だということでした。これは本当にその通りだと思います。

脳死下臓器提供の議論より先に、こちらの話が十分つくされることが大切です。

臓器移植によってしか救うことのできない命が存在するとはいえ、臓器移植は一定の不幸の上に成立する医療です。とくに脳死下の臓器提供はこれが明らかです。この不幸を可能な限り少なくする最善の努力なくして臓器提供の話はあり得ないと思います。

PICUは全国にまだ数が少ないため、それを増やし、医療環境を充実することは、小児の脳死臓器移植推進と不可分に思えます。

直接は関係ないようにも見えますが、医療環境の充実のみならず、子どもを守るための大人の意識改革も大切なのでしょう。シートベルトを始めとして、自転車安全教育など、やるべきことはたくさんあるように思います。

そうした、重大事故の予防、救急医療体制の整備などを十分におこなってもなお、不幸な結末になってしまった場合に初めて、臓器提供の話を考えてもよいのだと思います。

次に、植田先生は「生」「死」について真正面から議論することを提案されました。いかにも彼らしいと思います。

現在、医学の進歩により「生」「死」の狭間が曖昧になってきています。数十年前であれば、「脳死」「心臓死」を分ける必要はなかったでしょう。

僕はかつて、父から、死亡診断の難しさについて話を聞いたことがあります。

生きているのにご臨終を宣告され、「生きているのに『死んでいる』と言われた」と、泣きながら亡くなった親戚がいたそうです。

また、心電図モニターがなかった時代、父はご家族に部屋から出ていただいたことがあるそうです。そして、患者さんの胸に聴診器をあてたり脈をとったり、亡くなっているかどうか、1人で30分くらい悩んだことがあると言うことでした。

それ以来、僕の中では人の死は徐々におこりうるというイメージがあります。ただ、これはみな心臓死の問題です。

今は違います。そして脳死、心臓死、それぞれが極めて高い確率で正確に診断できるようになりました。その結果、どちらを人の死、家族の死として受け入れるのかという難しさが生じました。

(もしかしたら、脳、心臓以外の細胞までふくめてすべてが死滅した状態を「細胞死」なんていう名前で呼ぶ、新しい死の定義だって、今後、可能となるかもしれません。その議論は別の話として、ここではおいておきます。)

この脳死、心臓死のどちらを人の死と認めるかについて、日本は独自の制度をとっています。臓器提供を考える場合には脳死を人の死としてみとめるのです。医学的に同じ状態の患者さんでも、臓器提供がなされない場合、脳死は人の死として認められません。

このように同じ患者さんが生きているとも死んでいるとも判断可能な状況が存在する制度は、世界に類を見ないものです。

番組では、脳死を人の死として認めるかどうかについてのアンケート調査の結果が示されました。

興味深いことに、欧米各国と比較して、日本では脳死を人の死として認めるかどうか、大きく意見が分かれていました。一般に、様々な分化や価値観が混在するとされる米国よりも、人の死の定義に関しては、日本の方が圧倒的に様々な意見があるようです。

僕はそれで良いと思います。認める人の意見も、認めない人の意見も、それぞれがしっかりと守られてこそ、本当の自由意思による臓器提供が実現されると考えるからです。

ただ一般的に言って、そういうコンセンサスが社会に根付くのには時間がかかるものだと思います。

さらに、今の日本の制度では、日本には脳死を認め、臓器提供をしないという選択肢がないことを植田先生の話で初めて知りました。今の法律が、心臓死をベースとした考えに依拠していて、脳死を死として受け入れる発想を持っていないことを示していると思います。

これからは、臓器提供の意思がなくても脳死判定の必要が生じる可能性も考えていくことが望ましいでしょう。

自分が脳死となった時を考えてみます。もちろんそれに先立つ医療が最善を尽くしたものであることは前提条件です。でも僕が脳死となった時、僕は自分の臓器提供に賛成なので、家族の合意があれば、そこから先のプロセスに問題はありません。

でも、僕が脳死下臓器提供に同意していない場合には、脳死判定は行われることなく、基本的には心臓が止まるまで治療が続けられます。

もし、脳死が人の死として普通に認められば、僕はそれより先、望みのない治療を受けることなく、家族との別れの時間をもつことができるようになります。まだ心臓が動いている状態で。家族がその事実を受け入れられるのなら、それも「あり」ではないかと思います。

これから脳死下臓器提供について真剣に考えるひとが増えれば、「脳死=人の死」という価値観のもと、臓器提供に同意しないというひとが増えてきてもおかしくないと思います。そのような意見、感情に寄り添うことができるよう、法も整備されることが望ましいと思いました。

臓器移植をめぐる環境はまだまだ整備されているとは言えません。成人においても脳死臓器移植はまだまだ少数です。

いろいろな意見を内包しながら時間をかけて命を守る環境を整備し、議論を尽くし、日本における脳死判定と臓器移植が、少しずつ根付くことが、救われる命が増えることにつながるのだろうと思いました。

(実際には小児からの臓器移植でしか救われない患者さんもおられると思います。僕はそのような患者さんを存じ上げません。そんな僕が「時間がかかる」とか、「少しずつ根付くことが望ましい」などと悠長なことを言って良いのか、躊躇する気持ちもあります。けれども、今求められているのは、これまで「対岸の火事」のように思っていればそれですんだような、そういう人達の真剣な議論なのだと僕は理解しています。また、今の自分の頭の中で考えたことを記録にとどめておくことも、今後の自分の考えを深めることの役にも立ちそうに思います。なので、あえてここに記します。)

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