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新病院建設について思うことを書いたら小論文になってしまった。

 現在、僕が働いている病院では新病院建設の計画が進められています。これに伴い、意見募集の知らせが送られてきました。曰く、
『新病院の建設計画に先立ち、教職員一人ひとりが夢のある意見・思いを語ることによって、職員が働きやすく、患者さんにやさしい病院作りができると考えます。 どんな病院をつくりたいですか?あなたの意見を聞かせて下さい。』
だ、そうであります。

 私たちの働くモチベーションを高めるために建築物が役割を果たしうるのでしょうか。答えは多分『イエス』なのだと思います。ただ、その度合いは、建物にまつわる物語性によって変わるのだと思います。

 一人でも多くの職員が新しい新病院について考えることは、その物語性を高めることに貢献すると思います。そこで、自分も職員の一人として、どんな新病院で働きたいと思うのか、考えてみました。

 なんか偉そうな文章になってしまいましたが、自分の中では、以前から時々書いている『医系小論文演習』のひとつだと考えています。

 新病院は今後10年以上にわたり、私たちのホームグラウンドとなります。その意味で、単に使いやすいことのみならず、職員が誇りを持って仕事をできるような建造物となれば理想的だと思います。また、増築余地が限られている現状において、今後の本学の伝統を守りつつ、社会の変化に即応しながら成長して行くことを想定することが重要と考えます。

 現在の本学大学病院の建物は、上空から眺めた時、十字の形となるように設計されています。これは、キリスト的愛とそれに基づく医療を象徴しているのだと聞きました。この設計を初めて教えていただいた時、これは大変素晴らしいことだと感じました。熱意と志を持って、働く仲間たちには同様の感情を抱いた経験のある人もいると思います。

 新病院においても、我々医療者、病院を利用する方々から見て利便性の高い設計、というだけではなく、高い志や精神性が感じられるシンボリックなものを設計思想を織り込むことができれば素晴らしいと思います。新病院建築にあたり、十字形のデザインをどこかに継承することは、本学の精神の継承を象徴するアイデアの一つだと思います。

 一方、今後の医療の変化を想定しながら、医療に求められるものを考えるには、現代医療の成し遂げたもの、課題などについて考える必要があるでしょう。

 現代医学は人間の体を各臓器に切り分け、部品化することで発展しました。これは、各臓器の機能を保持すれば、命が失われる事はないはずだというテーゼに基づきます。各臓器を部品として取り出し、各専門家が故障の原因を究明し、修理します。

 これにより治療成績は向上しました。平均寿命ものび、日本は長寿国となりました。けれど、病気を部品の故障として扱うような医療の限界が明らかとなってきています。

 全人的医療という言葉が生まれた理由がここにあると思います。医療が専門分化していた時代にはそのような言葉は必要ありませんでした。次の時代に求められるのは高い専門性と全人性の両立であると考えます。

 また、不治の病とされた「癌」は早期に発見すれば治癒可能な病気の一つとなる一方で、生活習慣病という言葉に代表される慢性疾患への対策が重要性を増しつつあります。このような観点からすれば、「医療は人の命を救うためのもの」という考え方のみに立脚した医療観は力を失って行くのではないかと考えます。

 加えて医師患者関係の変化も特筆すべき変化です。かつての親が子のためを思うようなパターナリズムの思想による医療よりも、患者さんを主人公とする考え方に基づく医療が求められるようになりました。

 このような変化の傾向は今後も続くものであると考えます。この時、医療が変わらず求められる役割は、『誕生から死に至るまで、良い生が全うされることを支援すること』であると私は思います。

 この役割を果たすためには、治療の質を上げるだけでは不十分と私は思います。

 現在、治療の質を高めるやり方として、科学的根拠に基づく実証的医療、(Evidence Based Medicine : EBM)の考え方が全盛です。しかし、何万人を対象として作られた『エビデンス』が各個人にそのまま当てはまる可能性は高くありません。エビデンスが万能でない事は明らかです。

 より良い生を全うするためには、エビデンスに基づきながらも、その人の人生という物語を尊重する姿勢が必要です。この点で医療は自然科学とは決定的に異なります。時には、医学とすら相容れないこともあるでしょう。学問的には「例外」とされるような患者さんたちまで含めていかに加療するかを考えねばなりません。

 そういった医療がこれから求められて行くのではないかと思います。

 この点から、これから、重要視されるのは医療における「敬意」だと思います。病院を訪れる人たちへの敬意のみならず、生に対する敬意です。

 ここでは建物による「敬意の表現」について話を限定します。

 病院を訪れる方々への敬意は、医療におけるサービス業的な側面ととらえることもできます。エスカレータやエレベーターの充実に始まるバリアフリー化の徹底、プライバシーへの配慮、アメニティの充実、などがそれにあたります。

 また、東日本大震災は、災害時への配慮が日頃から必要であることを私たちに改めて認識させました。災害時に訪れる患者さんについても考えておく必要があるでしょう。

 大量の患者さんが押し寄せた時に、中央待ち合いホールにトリーアジ待ちの患者さんを集めやすいようにすること、また、伝染性感染症の患者さん数多く発生した場合には、容易に講堂などのスペースに隔離できるようにするといった、スペースの確保と導線の整理が必要です。

 これは通常業務のときにも役立つに違いないと思います。

 また、停電時、電子カルテシステムを含む最小限の医療機器への電力供給を太陽光、風力発電で補う事はできないものでしょうか。特に電子カルテに関しては、現行の病院機能を維持する上で、優先度は非常に高いと考えます。

 ここまで挙げたものは、現在と近未来に望まれることですが、この他、生に対する敬意の表彰として私が掲げたいのは、病院を去る人たちへの敬意、死に対する敬意です。

 これは病院にとって利益を生み出しにくい部分だと思われます。しかし、今後の医療のあり方について考えたとき、死の問題を考えずにはいられません。

 過去30−40年の間に日本人をめぐる臨終の様相は大きく変化しました。砂原茂一著「医者と患者と病院と」によれば、1947年、病院内での死亡はわずか9.2%で、1978年には52.7%となっていたそうです。インターネットで調べてみると、2001年には8割を超える方が自宅以外でなくなっています。当然、そのほとんどが病院です。

 昔なら大往生を迎えていたかもしれないようなお年の方が、具合が悪いといって病院を受診し、入院を希望されます。私はそれを批判するつもりはありません。自宅で死を迎えることが普通だった時代から、病院で死を迎えるのが普通の時代になりました。

 今後、ご自宅で人生を終える方がどの位増えるのか、僕にはわかりません。けれども、病院で亡くなる人は必ず存在します。そのとき、病院は、当然、患者さんの人生の終焉を大切に考えるきだと思います。生を敬うということは、そういうことだと思います。

 本学には礼拝堂があります。これと類似した静かな瞑想室のようなスペースを霊安室に附属させれば、ご家族のグリーフケアの一翼を担うことができるでしょう。

 病院は、人が亡くなった時、皆が故人を想いながら敬意をもって見送るのだということを実感できるような施設であってほしいと思います。

 これは新しい発想ではありません。病院の最上階に特別室のような霊安室を持つ病院は、すでに国内に複数の先例があり、評判は良いと聞きます。

 建築やデザインが人を刺激する事があるとすれば、それは物語のきっかけとなるからだと思います。人が亡くなった時、それが次の物語の始まりに繋がれば素晴らしいと思います。

 最初に述べた通り、新病院は、今後、永きにわたって働く場所です。多くの人達のアイデアを結集し、これまでの良き伝統を継承して発展させていこうという、向上心の源となるような建物となることを願っています。

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