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『指揮官の決断』を読みました。居住まいを正される思いがしました。

 『指揮官の決断―満州とアッツの将軍 樋口季一郎 (文春新書) 』は満州でのユダヤ人救済劇とアッツ島玉砕戦の双方に大きく関わった、樋口季一郎の評伝です。

 先輩が読んだ感想をみて読んでみたいと思いました。

 この評伝を読んで感じた事は、樋口季一郎という人の器がとても大きかったという事と、日本人らしい国際人の姿がここにあるのではないかということでした。

 樋口季一郎は日本軍の特務機関(情報機関)に属し、第二次大戦前には、ソ連に関する情報の専門家としてポーランドを拠点とし情報収集に当たった後、満州国ハルピンに滞在後、第二次大戦開戦後に北部軍司令官として札幌に着任しました。

 副題では「満州とアッツ」の二つですが、本書で僕の印象に残った大事件は三つありました。

 オトポール事件、アッツ島の玉砕戦、そして占守島の戦い、であす。

 オトポール事件は、文頭にも述べた樋口による満州でのユダヤ人救出劇です。

 日本人によるユダヤ人救出劇として有名なのはリトアニア駐在だった外交官の杉原千畝によるものですが、もう一つの救出劇が、杉原に先立つこと二年前に満州において樋口季一郎によってなされていました。

 この救出劇の舞台となったのがオトポールという場所です。

 樋口が、満州国でハルピン特務機関に勤務していた時、ユダヤ人難民が発生しました。ソ連から満州国を通り、上海へ抜けることを希望したユダヤ人に対し、ドイツの気色をうかがう満州国外交部は彼らへのビザ発給を拒否します。

 樋口は「人道上の問題」として難民の受け入れに奔走しました。この時わたりあったなかには、当時満州鉄道総裁だった松岡洋右も登場します。松岡は樋口の主張を受け入れ、ユダヤ人の特別列車へでの満州国への入国と移動を認めたのでした。

 樋口の指示によりビザが発給され救済されたユダヤ人は一説には二万人に及ぶとされます。本書によれば、この数字の信憑性には疑問符がつくもののようですが、「ヒグチルート」はその後約3年にわたり使い続けられた事は事実のようですから、合計するとそのくらいの人数になったのかもしれません。

 その後、樋口の行動は、ドイツ政府からの公式の抗議文書として問題化します。新京の軍司令部に呼び出され、出頭した樋口は東條英機参謀長と会見し
『参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか』
と言い放ち、自説を展開しました。
『たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない』
この結果、東條も樋口の主張を認め、ドイツからの抗議は不問に付されたそうです。

 『ヒグチルート』によるユダヤ人救出に、松岡洋右や東條英機が貢献していたとは少々意外でした。

 この事件について樋口が孫に語った言葉が紹介されています。

『自分がヨーロッパに滞在していた当時、有色人種たる日本人に対する差別の目が歴然と存在していた。日本人が下宿を貸してもらえないなんて話は山ほどあった。そんな中で、日本人に家を貸してくれたのは十中八九、ユダヤ人だった。日本人はユダヤ人に非常に世話になっていたんだよ。』 

 樋口にしてみれば、崇高な理念に基づくというよりは、もっと生々しい体験、親近感に基づく個人的感情がその動機だったのでしょう。

 全然関係ないけれど、自分がニューヨークで知り合った多くのユダヤ人の人たちが思い浮かびました。僕を指導してくれたボス、僕たちが暮らしていたマンションのオーナー、妻の英語の先生、、、皆よくしてくれたなぁ、、、。

 さて、第二次大戦の終戦が近くなり、北部軍司令官として、北の国防にあたっていた樋口は、人生最大の試練を迎えます。

 アッツ島の戦いです。アメリカ軍との攻防において、日本軍は玉砕します。日本軍の生存率は約1パーセントだったということです。樋口は第二次大戦において、日本軍最初の玉砕戦の司令官となりました。

 樋口の心に残った傷は僕の乏しい想像力では計り知れません。しかし彼は、最悪の結果と対峙しながら、その隣にあるキスカ島にいた5000人以上の兵士の撤収にあたります。これを、制空権、制海権を奪われた中で、見事に成功させました。

 そして、最後、占守島の戦いです。

 1945年8月15日の「終戦後」もソビエトの進攻は継続しました。一旦は武器を置いた兵士達をソ連軍が襲います。本書によれば千島列島最北端の占守島を死守した事により、ソビエト軍の北海道本土への進攻が阻止できたとされています。その占守島での戦いも司令官は当然、樋口でした。

 これらの経緯は、そう遠くない時代の話です。日本人として、リアルに感じておいていい歴史だと思います。

 オトポール、アッツ島、占守島いずれの場面に置いても、樋口は自分の責任から逃れる事なく、それぞれの問題と正面から対峙していました。

 これらの事件を経て樋口は札幌で終戦を迎えます。

 自宅をアメリカ軍に明け渡す事になった樋口は終戦時に混乱し失われていた備品をできるだけそろえ、床やガラスまで磨いて明け渡しに備えました。この時の日本側の振る舞いに米軍司令官は感激したと言います。この事例に始まり、アメリカ軍捕虜に対する処遇、終戦時の処理を調査したアメリカ軍は樋口への評価を高め、ついに『特別顧問』の職を要請されました。

 軍人としての職を失い、経済的に困窮している樋口に対し、当時の金額で20万円という高額の申し出でした。それに対し、樋口は『バカな事を言うな。』と一蹴したそうです。

 いろいろな価値観があると思いますが、それを貫ける強さは尊敬に値すると思います。

 本書では、こう言った軍人としての側面だけでなく、人間、樋口季一郎らしい側面にも光を当てます。ヨーロッパ滞在中に社交を楽しんだ様子、多くの後輩から慕われていた様子や、家族をめぐる数々のエピソードなどは、彼の人柄を忍ばせてくれます。

 戦後、ソ連が日本軍情報機関として働いた樋口に対し、ソ連国内の刑法によるスパイ罪を適応するため、身柄引き渡しを要求しました。この時、ニューヨークに総本部をおく世界ユダヤ教会がアメリカ国防総省に強く働きかけます。世界ユダヤ教会幹部の中には、実際に樋口のビザで命を救われた人もいたということです。そしてこの動きが奏効し、樋口が戦犯としてソ連に引き渡されることはありませんでした。

 19世紀の日本に生まれ、日本的な価値観を持って育った樋口は、日本人だけでなく、外国人との交流も楽しむことができた人でした。そして外国の人からも尊敬される人徳を持ち合わせていました。

 死後40年以上たっての取材による評伝は大変な苦労を伴ったと思われます。「来るのが遅すぎた」などという言葉もかけられたようですが、評伝として形をなしたのですから、「なんとか間に合った」とも言えると思います。このような評伝をまとめられた筆者に敬意を表します。

 いろいろな意味で居住まいを正される思いがしました。


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著者:早坂 隆
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