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フィリピン

学生時代、夏休みにフィリピンに2回行きました。クラブ活動と公衆衛生学の実習をかねたものでした。4年生の時と5年生の時。最初が3週間くらい。次が5週間くらいだったと思います。

当時、僕たちの一学年上の先輩達によって「世界の医療を考える会」という名前の同好会が設立されました。彼らはいろいろな国、特に開発途上国を旅してきては自分の見聞きしてきた外国の医療事情を語ってくれていました。熱い人たちでした。開発途上国から感染症を持ち込んで寮が出入り禁止になってしまった事もあったと記憶しています。

僕はその会に入っていたわけではないけれど、友達の友達の先輩の、、、、といった感じの人間関係で彼らが語る飲み会の場に参加したりしていました。

そして、いつの間にかその同好会に参加することになっていたのでした。

どこからか援助が出て安く外国に行けるらしいよ、、、なんていう誘いもあったような気がします。実際のところはよく覚えていませんが、、、。

そのうちに、この会が出来る遙か昔に大学を卒業した先輩で、偉い人がいるという情報を、誰かがどこからか仕入れてきました。

その人は星野邦夫先生と言って、シュヴァイツァーに憧れ、定年退職後、フィリピンのハンセン氏病対策をボランティアで支援されていました。

星野先生は当時、我孫子にお住まいで、話を聞きに行ったりしました。失礼ながら、話の内容は覚えていないのですが、もの静かで優しそうな語り口と大きな目が印象的でした。

そのうち、公衆衛生学の実習をフィリピンで活動する計画が持ち上がり、いつの間にか実現してしまいました。我が学年のメンバーは、『ディッセ腔』で名をはせた宇宙飛行士O君、ウエプー、タクサん、ボンさん、コジヤンなどでした。

僕たちには星野先生のみならず、奥田邦雄名誉教授まで同行してくださいました。奥田先生は米国肝臓病学会で Distinguished Service Awardという賞を受賞した唯一の日本人です。

肝臓癌のOKUDA分類というのは国際学会では今でもよく耳にします。英語も大変お上手で、いろいろな方と打ち解けて話の出来る社交的な国際人でした。

この奥田先生を含めた学生達がセブ医科大学の学生達とボホール島という島で約1ヶ月、共同生活をしながらフィールドワークを行ったのでした。

一年目のときには、僕の初めての異文化体験でした。

仲間とはぐれてしまい、デパートで走り回っていたら、ドロボウと間違えられた事がありましたっけ。

「お前は日本人か?」と聞かれ「Yes」と答えたらあっさりと帰してくれました。あとから「フィリピンは暑いから昼間から走るのなんてドロボウと日本人くらいなモノだよ。」と説明を受けました。未だに真偽のほどは定かでありませんが。

星野先生には、ハンセン氏病の方々が暮らす集落に連れて行っていただき、その集落の方々に歓迎の会を開いていただいたのも強く印象に残っています。病気のご夫婦が歌いながら舞ってくださった様子は今でも覚えています。

2年目の時は慣れた事もあったのでしょう、あちらの学生達ともよく話をしました。

自分がいかに恵まれて育ったかを実感し、その感謝の気持ちをこめて貧しい人につくしていきたい、と熱い想いを語っていた優等生(名前を失念しましたが、彼は自他ともに認める学年トップの学生だとの事でした)を初め、彼らから強いインパクトを受けました。

奥田先生が病院中をかけずり回るように回診をされ、それにつかせていただいたのも強烈な印象を残しています。定年退官されたご年齢にも関わらず、そのエネルギーは僕たちを軽く凌駕するものでした。破傷風の患者さんや赤痢アメーバの患者さんなどがプレゼンテーションされていたのを覚えています。

その他、お世話になった役人の一人にいたく気に入られた、なんてこともありました。僕一人だけ、その役人さんのお宅にまねかれて、奥さん、娘さん、おじいちゃんに紹介してもらいました。彼からはなぜか「お前の先祖のfamily nameはマキシモに違いない」と言われ、その後「Max」というニックネームをちょうだいしました。で、なぜか彼らの前で「いとしのエリー」を歌って帰ってきたのでした。今考えても、ワケわかんないね。でも楽しかったです。

その後、向こうで御世話になった人が交通事故にあい、経済的な助けを求めてきたこともありました。その求めにどこまで応じるのか、夜通し議論したこともありました。

そこで熱く語っていたものは、すごく未熟で、青臭い議論だったように思います。でも、若さと純粋さがそこにはありました。

僕が自分の中で得たものは何だったのだろう、、、。

4半世紀近くの時が経って、若者の中には入れてもらえなくなり、それなりに世の中のホコリにまみれきて、でもあの時得たもので今も少しは持ち続けられているものは何だろう、、、。

一つ見つかりました。予め「コウデナケレバナラナイ」という考え方を持たずに事に望む姿勢です。

その結果、あの経験を通して、異なる価値観に対して、open mindedになれた気がします。

そして、彼らからなんとかなるさ的な楽天性をもらったような気がしています。

あまりくよくよ悩まず、先の事は考えず、一歩踏み出したうえ、そこで出てくる問題について悩みたい。そんな風に考えるようになりました。

でもやっぱり、それだけでなく、あの頃の純粋さも失わずにいたいと思います。

Steve Jobsが言うように。

Stay hungry. Stay foolish.

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