こんな言葉を発したい
『こんな言葉で叱られたい (文春新書) 』では、ジャイアンツが弱かった時のことが次のように述懐されています。
「堀内監督時代の二〇〇四年、二〇〇五年には、個性的だが球場でもわがままという選手が多かった。チームが負けても自分が複数安打すれば笑顔を浮かべるような古手、当たっている時は底抜けに明るいが、不調になるとチームを沈めてしまうくらい落ち込んでしまう選手、そんな先輩や球団に歯噛みする若手と、チームはばらばらだった。」
この文章を読んで、今、いろんなところでこれと同じような状況の集団が存在しているのではないか、と思ってしまいました。それどころか、くすぶっている日本全体も、当時のジャイアンツの状況と置き換えることができてしまうように思います。
(僕も人のことは言えませんが)日本中で中途半端な「個性派」が無責任な批判を繰り返しているような印象をもつのは僕だけでしょうか。
マスコミ報道は混乱をあおるようなセンセーショナルな報道を好むように見えますし、論評も後だしジャンケンのような批判が目立つように感じます。
批判も悪くはないと思います。ただ、今の世の中、自分で責任を取ることを前提とした、力のこもった言葉を紡ぐことができる人が少なくなってきているように思うのです。言葉に力の無い批判は非難と同義に思います。
野球だって、チームのメンバーがバラバラな方向を見て、それぞれ勝手に思いを語る様な状況に将来を期待することは難しいものです。
ナショナリズムや全体主義は僕の好みではないですが、個人主義は貧困な社会性と同義ではありません。個性派が力を合わせて無類の集団となる話は古今東西、枚挙にいとまがありません。
一人ひとりのレベルアップとチーム全体のレベルアップは同時に成立しうるはずのものです。チームのレベルアップも個人のレベルアップにつながることを配慮して計画されれば良い循環が期待できます。
そういった良い循環を生み出すための責任ある批判は和を乱すものではありません。それは対話を生み、提言につながるものだと思います。
チームの一人一人がそういう意識を持つことができればスバラシイと思います。
まずは自分から、良い循環を生み出すための責任ある言葉を発信できるようになりたいものです。
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こんな言葉で叱られたい (文春新書) 著者:清武 英利 |
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