バンクバー・オリンピックで思ってしまったこと
今回のオリンピックではスノーボードの國母和宏選手の制服の着こなしが話題になりました。様々な形でマスコミに取り上げられた選手たちがいますが、残念ながら、それによって競技前に集中力をそがれてしまった選手もいたのではないかと想像します。
服装問題について、そろそろ感情的な議論はおさまってきていると思うので、それについて一言。
個人的には制服を着崩すことで自己主張ができると思っているであれば、それは幼稚なことだと思います。
ただ、スノーボーダーがその身なりや行動でマスコミの標的となるのは日本だけではありません。トゲのついた犬の首輪をしてオリンピックに出場した選手がいたり、金メダリストからマリファナ陽性反応が出た事のある (しかも結局金メダル剥奪になっていない!!) 競技なんてスノーボードくらいでしょう。
メダル剥奪にならないマリファナの検査が選手に対して行われたことは、スノーボーディングにまつわる文化と歴史を象徴的に表わしていると思います。
その黎明期にスノーボーディングはマリファナを始めとする反社会的行為と分ちがたく結びついている一面をもっていました。マリファナを想像させるような言葉を、敢えて競技会のキャッチフレーズとして用いたこともあったようです。
「あのファッション」も同じカルチャーの延長線上にあると言っていいでしょう。
そんな反社会的なニオイが若者の目にカッコ良くうつるのは何時の時代も同じです。そしてそのニオイが、スノーボードの競技人口を増加させる事に大きく貢献した、という事も間違いないと思います。
しかし、スノーボーディングがスポーツとして発展する過程では、このカルチャーは諸刃の剣であったことも確かです。
オリンピック競技として認知されてもなお、先の金メダリストの例のように暗い影をおとすこともありました。(しかも金メダリストからマリファナが実際に検出されてしまうというワキの甘さ!)
日本では主としてそのファッション性のみが輸入され、マイナス側面が語られることは少ないようです。
しかし、米国などでスノーボーディングの黎明期からその競技の発展に力を尽くしてきた人達は、そのマイナス側面を払拭するために多くの努力を払ってきたはずです。僕の知るクリス・クルーグ選手はその一人です。他にも同様の選手は沢山いるに違いないと思います。
日本のスノーボーディングを代表する選手が、プロとしてスノーボーディングの発展を望むのであれば、そのスポーツが歩んできた歴史を知ることが必要でしょう。(僕などが言うまでもなく、そして僕より深くご存知の事とは思いますが、、、。)
その上で、マスコミへの対応も含め、戦略的にふるまう視点があってもいいだろうと考えます。これは人間性や実力/成績とは別の話です。
どのように行動するのが効果的であるのか、そのヒントがあの騒動にはあったような気がします。
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