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自分で考えるということ6

短絡思考が幅を利かせる社会的風潮にある中、僕は「学問の大切さを認識し、学問へ回帰する事」が再認識されていいのではないかと思います。

これは、子供達の学力低下を危惧する、「ゆとり教育」の反省の様なものとは少し違います。「勉強が足りないから勉強を増やせばいい」式の議論を展開するつもりはありません。

僕の言いたい「学問への回帰」は、むしろ「ゆとり教育」によって達成されるべきであった事だと思います。学問の道を選んでまだ日の浅い僕ですら、前述のようなマスコミによって報道されている「学問」は、非常に浅薄で、インパクトだけを求めるものや、時流に追随するだけのものが多いのが現状であると思います。

「科学的」を標榜する番組で捏造報道があった事は記憶に新しいところです。捏造が論外だとしても科学報道に大きな変化が見られていないと思われる事は先日述べた通りです。

その様な浅薄なものを追い求めれば、知識や技術に偏り、短絡的な思考しかしない傾向が助長されるだけでしょう。その様な場合、測定可能なものが評価され、受験などに強い、記憶力や、短時間の問題解決能力に重点がおかれやすくなります。

一方で、問題発見や問題設定の能力や、諦めずに考え続ける粘り強さといった知力を育むための視点が置き去りにされてしまうでしょう。知力のないままに知識を振りかざせば、知識に振り回されて腰の据わった学問ができようはずがありません。

僕は、学問から、表面的な知識ではなく、その底流にある知性や哲学を学びたいと思います。そこで学んだものは測定しにくいかもしれませんが、真に応用可能な知性足りうると考えますし、そこに悦びを見出すことができるからです。

世の風潮が軽薄短小であったとしても、少なくとも自分はそう言った本質的部分を忘れたくないと思います。

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