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自分で考えるということ5

もはや僕など仲間に入れてもらえなくなった若者文化を見てみると、短絡的思考の傾向はさらに明らかです。重症化しつつあると言っても良いでしょう。

僕が若かりし頃は「軽薄短小」と言われたものですが、もはやそれが標準となりこのような四字熟語すら使われなくなりました。そして「空気を読む」とか「〜っぽい」などという雰囲気や外見が判断基準となっています。

携帯メール、ブログなどでは顔文字や絵文字が氾濫し、雰囲気をかもし出す事に大きな役割を果たしています。

確かに文字、活字では伝えきれないものもあるでしょう。技術が文字の不自由さを克服して行く様を見ているとも言えます。かつてテレビ、ラジオ、電話などに押され気味だった文字文化が、現代においてはインターネットや電子メールと言った技術革新によって復権した様に見えます。

しかし一方で、不自由な制約の中で磨き上げてきた言語技術が、技術革新によって退行しているという側面もあると思います。しかもそこで役割を果たしているのが象形文字ならぬ、絵文字なのですからなんとも皮肉です。

技術革新によりコミュニケーションが楽になっているのは間違いありません。僕はこの点を否定するものではありません。新しい文化の創出も期待できます。

しかし、楽をすることによって失われる可能性のあるものに目を向ける事も大切だと思います。

特に言葉について考えれば、高度な言語能力は緻密な論理をくみ上げる為に必須です。そしてその鍛錬が高い知性を育むのだと思います。

ひとつの問題が提起された時、正解へ至る道は必ずしもひとつではないと思います。 正解もひとつではないかもしれません。問題の設定如何によっては正解すら存在しないこともあるでしょう。 粘り強い知力を育む為には、言語能力は不可欠です。

この点において、僕達は退行傾向にあるのではないでしょうか。

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