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自分で考えるということ4

僕がニュース番組を見る時、「どんな風に考えているか」を考えてみました。

前回まで書いてきた記事のごとく、僕自身、意識する、しないに関わらず、「答」が提供されるニュース番組を見ると、それを参考に「自分の意見」を構成しようとします。

そしてその「自分の意見」を検証するため、他のニュース番組を見たりします。この様な姿勢でニュース番組を見る時には、解説の少ない、情報提供に主力を於いた簡潔なニュース番組に物足りなさを感じます。

一方、「自分の意見」と異なるような事を述べるキャスターに対しては、議論が出来るような気がして、ニュースの解説に聞き入ります。

多くの場合、別のニュース番組で、全く新たな視点が提供されることは殆どありません。前のニュース番組で形成された「自分の意見」と次のニュース番組で提供される「答」に多少の差異はあっても大きな隔たりがないと言うことが再確認されます。

この事は、各局から報道される「答」とそこれをもとに導きだしたつもりの「自分の意見」が似通っている事を示しています。 そして多少の差があることがまた、表面的な議論を可能とするため、自分で考えているような満足感を醸し出します。
 
それぞれの情報について効率良く結論を導く。この過程も可能であれば他人の手を借りて省略する。そして周りを見て自分の中での落ち着きどころを決定して一件落着。そうすることにより大量の情報を消費し、忘れ去って行く。それが情報にあふれる現代社会の現実の様に見えます。

そこに独自の思索を巡らす余裕は見出せません。恐ろしいのは、それでも考えているつもりになれる所です。

ソースが同じですから各人が情報から導き出したと思っている「答」は同じになります。こうして気づかぬうちにステレオタイプ的な世論が形成されるのであれば危険なことです。

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