理解と誤解と推察力
ファインマン博士の「科学は不確かだ!」に下記の様なくだりがありました。
「今日なにか生理学の発見があると、新聞が必ず使う決まり文句は、皆さんもご存知でしょう。『発見者によると、この発見はガンの治療の役に立つかもしれない。』ところが、いざ発見されたそのもの自体の価値となるとてんで説明もできないありさまです。」
40年以上も前の講演の内容とは思えません。半世紀近くも全く同じような報道が続いているとは、、、。科学技術が進歩しても人間は進歩しないものなのだなぁ、と思ってしまいます。けれども新しい発見がなされた時点で「そのもの自体の価値」を本当に把握するのはとても難しいのだと思います。
「自然の働きを理解しようと言うときには、人間の推察力が、実に容赦なく試されるものです。」
なんと厳しい言葉かと思います。僕などは理解しようとして誤解するのが関の山です。
以前に聞いた事がある科学者の実験です。
バッタの足を2本とって「飛べ!」と言ったら飛んだ。もう2本とって「飛べ!」と言ったらやっぱり飛んだ。さらに2本とって「飛べ!」と言ったら飛ばなかった。結論。バッタは足をすべて取ると耳が聞こえなくなる。
笑い話にもなっているようですが、「人は事実を歪曲する事は許されないが、誤解する権利はある。」という事の訓話にもなっていました。
事実の解釈に関しては、ファインマン博士と一緒にノーベル賞を受賞した朝永振一郎博士にも同様の話があるそうです。お孫さんに「木が揺れるから風が吹くんだよね。」といわれ、朝永博士がハッとした、という事でした。朝永博士の言いたかった事は、正しいか間違っているかは別として、先入観を持つ事が事実の解釈を狭める可能性がある、という事だろうと思います。
実はこれ、僕が大学受験した時の小論文のテーマとして出題されたものでした。もう20年以上前の事で、当時自分が何を書いたのかは覚えていませんが、試験の時には出題意図が解らずに困惑した事だけを覚えています。今になって何となく感じるところが出てくるとは、なんと歩みの遅い事でしょうか。
一つの現象を前にした時、そこから何を学ぶのかは人により異なるのでしょうが、それは才能とかセンスとかによると言ってしまえばそれで終わってしまいます。自分としては限られた中で、より多くが学べる視力、推察力というのはどうやったら身に付くのかいつも考えて行きたいと思います。
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