なんとなくちょっと強く思ったので、今日は初めてデアル調。
このごろの若者は自己犠牲という事を知らない。
医は仁術。昔の医者は患者のために我が身を削って働いた。
エラい人達は言う、俺たちの頃は、、、。 今の若い奴らは、、、。
報道ステーションのふるたちさんも、自己を犠牲にして献身的に働く医師のニュースを報道し、そんな感じの事を言っていた事があった。世の中一般にもそう感じる人がいるのかもしれない。多分、そこに真実も含まれてはいるだろう。
でも、ホントウにそうだろうか。全てにおいて。
医学が進歩し、医療の形態が変わり、社会が変わり、医療がサービス業の一つとして認識されるようになり、医者患者関係が変わった。それを悪い事とは必ずしも思わない。
ただ、昔は血液検査だって画像検査だってずっと少なかった。今は多くの検査が比較的手軽にできるようになり、診断基準が定まり、XX医師の神の目、神の手でなければ診断できない、なんて病気は少なくなった。
病気になっても治療法が少なかった。誤解を恐れずあえて言えば、多くの病気は寝ている事が治療だった。内視鏡も、カテーテルも、透析や血漿交換も、移植医療なんてのもなかった。技術的には今でも「神の手」は存在するかも知れないが、Evidence Based Medicine (EBM)の流れはそれを求めてはいない。クスリの進歩だって凄まじい。
情報はあふれ、進歩についていくのも大変だ。ただ、昔は勉強する事が少なかったと言う人もいるが、そうは思わない。一昔前の書物を紐解けば一目瞭然。医学の分野にあっても温故知新という言葉を改めて実感させられる。しかし、それはまた別の話。
そしてまた、医者の倫理観が問われる事は少なく、患者側の権利も確立していなかった。だから、EBMなんて事言われずに、これまた誤解を恐れずに言えば、それぞれの医者が好きなように治療していたし、検査や治療に対しての承諾書の数だって今よりずっと少なかった。思いつきに基づく治療もあった。間違いなく。
でも医療訴訟はずっと少なかった。訴訟で医者が負ける事も何故か少なかった。
製薬会社の接待は今よりずっと派手だった。昔の医者が金持ちだったかどうかはよく知らないが、医者が金持ちと言うイメージは昔からあったらしい。火のないところに煙はたたないだろう。少なくとも今の勤務医は、必ずしもそうではない。
聖人君子なんてそうはいない。多くの場合、かつて医者の自己犠牲がホントウだったならば、それはそれだけ見返りがあったからではないか。それを多くの人は「やりがい」と称していたのではないか。
そういった見返りを期待しない医者も沢山いたのだろうと思う。でも、そういった医者だって、「『実質的な見返りを求めるのではなく、患者さんの笑顔がみられればそれでイイ』そう信じて必死で働けば、生活に困ることはない。収入、名誉その他の見返りは自然とついてくる」そう教えられて育ったのではないか。
全国の医学部の現在がどうなっているかは知らないが、少なくとも僕が学生の頃は、医学部の授業に経営や、マネジメントに関する講義なんてなかった。料理学校などでは料理の原価計算やレストラン運営のための経営ノウハウを学ぶ講義がある。医者はそんな事を考えなくても良い。医者も患者もそう信じている。そういう時代だったのではないか。それが「昔」のイメージではないか。
昔は良かった、、、。今の若者から見てもそう思える時代だったのではないか。 でもその理由は、善意と美談にあふれた過去があると信じるからではない。混沌とした理念も理想も見えない医療制度改革とあいまって、医療者として若者が自分の将来を考える時に、やりがいという名の見返りが期待できないからではないか。
時代が変わっても 「患者さんの笑顔がみられればそれだけでイイ」とそう信じて頑張っている人がいるのは事実だろう。でもその美談を全ての医者に強要などできない。
給料だって勤務医と同じかそれ以上稼げる業種はきょうび沢山ある。多くの病院の福利厚生の貧弱さを考えれば生涯所得の格差はさらに広がる。
そんな社会であっても、医者がやりがいを持ちながら仕事をし、患者さんに貢献できるシステムを構築する事はできないものか。そのやりがいの多くの部分は他の仕事でも得られる満足感かもしれない。それで良いじゃないか。
それでも、それでもやっぱり思ってしまう。医者のやりがいの一部は、医療者でなければ経験できない類いの、利他的な快感であって欲しい。僕も古い人間なのか。
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