2009年5月 5日 (火)

「投与」「投薬」の仏教的意味

 以前2007年2月のブログ「使う言葉、使わない言葉」で、僕が研修医時代、投与、投薬という言葉を使わないように指導された、という話を書きました。
 
 ご指導くださったI教授の哲学は今でも正しいと思っているので、この言葉はあまり使っていません。ただ、最近、異論を耳にしたので以前ほどアレルギーがなくなってきました。
 
 投与、投薬という言葉の「投」という字が用いられる語源には、仏教的意味がこめられているのだそうです。
  
 それは釈迦入滅を描いた涅槃図に示されているとの事です。
 
 お釈迦様が沙羅双樹の樹のもとで入滅される時、我が子の急を知った天の摩耶夫人が駆けつけ、薬を届けようと、天上からお釈迦様めがけて薬を投げました。
 
 残念ながら、薬は沙羅双樹の木の枝に引っかかってしまい、お釈迦様に届く事はありませんでした。
 
 弟子達、動物達、沙羅双樹の樹までが嘆き悲しむ中、薬の引っかかった沙羅双樹が青々と茂っているのだそうです。また、薬を取りに行くのはネズミの役割で、同じ絵に猫が書いてあったりなかったり、いろいろな絵があるそうです。
 
 この仏教的故事から投与、投薬という言葉が生まれ、用いられるようになったということです。「投」という文字には、病に伏した我が子を救おうとする母の愛がこめられているのだと知りました。(本当は出典を示そうと思ったのですが、色々なwebなどに出典の明示なしで載っていて正確なところはよくわかりませんでした。)
 
 毎日の様にこの文字に接しながら、表面的な意味しか知らなかった時に比べ、言葉の由来をちょっとでも聞きかじった今は、自分の心持ちが少し変わったような気がしています。

2009年4月29日 (水)

この国の医療のかたち

この国の医療のかたち 否定された腎移植  を読みました。

この本は、しばらく前にマスコミを賑わした病気腎移植(レストア腎移植)問題のについての本です。

レストア腎移植を行った万波医師の側も、それを非難する側の日本移植学会も取材して書かれていて、取材者の意見、感情の移入はあるものの、真っ当にジャーナリスティックな本だと思いました。僕の偏見かもしれませんが、そう感じる事はそれほど多くありません。

本書の内容が全て本当ならば、びっくりするような医学的進歩の可能性が示されていると思います。深刻なドナー不足の中、レストア腎移植は一つの選択肢として真剣に考えてよいものだと感じます。これを否定しよう、非難しようとする議論は、本書に書かれている限り矛盾していると言わざるを得ません。

一方で、日本の移植医療は、和田移植に始まって、大変厳しい時代をくぐり抜けてきたという、歴史的特異性を無視する事はできないと思います。世論やマスコミの反応にナーバスになりやすく、前に進むためには万全を期してもまだ不安が残るような日本の移植医療の現状には理解すべき点もあると感じました。

例えば、僕は「目の前の患者さんさえ喜んでいればいいという姿勢には問題がある」という学会側の主張にも、医療の公平性という観点から一理あると感じました。

この観点からすれば、レストア腎移植を誰に行うかの決定は、個人の医師が行うべきではなかったといえるかもしれません。

かつてスクリブナーが人工透析機を実用化した時、透析供給体制は患者さん5人が精一杯だったそうです。彼らは、多くの腎不全患者さんの中から誰が透析医療を受けるのにふさわしいのか、患者さんを選別する必要に直面しました。彼らは、そのための委員会を立ち上げ、公開で議論しました。この委員会は「神の委員会」と呼ばれたそうです。このあたりの事については、李 啓充 「続 アメリカ医療の光と影」に詳しいのでお読みください。

先進的な医療の黎明期には同様のことが起こる可能性があるのだと思います。だからこそ、個人の判断では難しい場面が容易に想定されるのです。

それから、少し気になったのは、学会報告、学会活動が、名誉欲によってのみ行われているかの様に感じられるところが所々あった事です。

僕は貴重な経験であればあるほど多くの人と共有する事が大切だと思います。そうする事によりいろいろな人からの意見が聞けたりして、独りよがりな解釈を避けることができるというメリットがあります。

僕が研修医だった頃、先輩のN先生は「臨床家は症例報告に始まり、症例報告に終わる。」と言って指導してくださいました。

「症例報告に終わる」かどうかはわかりませんが、一例一例を大切に、という事だと思います。

本書によれば、万波先生はそんな「報告」なんて事には頓着せずに、本当に患者さん一人ひとりを大切にして診療する先生なのだと思います。

「報告すること」と「丁寧に診療する事」とどちらが大切かと二者択一を迫れば後者だと思います。本書を読めば、やむにやまれず本当にどうしようもなくて困っている患者さんの為に行われた医療であることがわかります。現実に目の前の患者さんとともに悩み、救い、患者さん達から支持されている万波先生を非難するつもりはありませんが、ただ僕は、それが多くの人に知られずにいる事をもったいないと思います。

学会活動は名誉のためでなく、こういった優れた進歩を多くの人に知らしめ、公平な議論を通じて医学、医療の進歩を促進するためにこそあるものだと思います。

その辺がうまく機能していない、または悪しき弊害が存在する事を本書は示しています。

レストア腎移植が早い時期から広く認知されていたら、もっと冷静で建設的な評価がなされていた可能性もあるのではないかと感じました。また同時に、後からでも評価すべきものは公明正大に評価すべきだと、当然の事を改めて思いました。

この国の医療のかたち 否定された腎移植 Book この国の医療のかたち 否定された腎移植

著者:村口 敏也
販売元:創風社出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2009年4月26日 (日)

2008年ノーベル賞を読み解く

表題は週刊医学会新聞の2009年4月13日号に掲載された、新潟大学脳研究所統合脳機能研究センター長・教授/カリフォルニア大学教授 中田力先生の寄稿です。

雑事に忙殺されて、机の上に放り出したままになっていたのですが、ようやく読む事ができました。

やや強引な印象も受けましたが、共感できるところも多く、一つの意見として大変参考になりました。

印象に残ったのは下記の4点についてです。

1)ノーベル医学生理学賞の近年の傾向と2008年の受賞者が意味するところ。

2)そしてそこから導きだされる日本国際賞への警鐘。

3)「賞をとる」事を目標とした科学のあり方への批判。

4)日本人の評価する日本の貢献度と、国際社会での認識の違い。

内容に興味のある方はこちらをお読みください。

ノーベル賞は医学・生理学賞、経済学賞、物理学賞、化学賞、文学賞、平和賞と非常に広いジャンルにまたがっていて、その全体を俯瞰するような論評を書く事はとても難しいと思います。

専門分野のみに限ったとしても、説得力のある論評のためには、ぶれない視点と地に足の着いた洞察が必要になると思います。

しかし、昨年のノーベル賞の発表後に沸き返った日本の報道では目の前の「結果」に浮かれた報道があまりに多く、「なるほど」とうなずかされる記事には出会いませんでした。

それぞれの点については似たような事も少しは語られていたかもしれません。しかし、論説の基調が全く異なっていたと思います。以前の記事でもちょっと触れましたが1)について語られた日本語の記事は目にしませんでした。

その違いはジャーナリストとサイエンティストの違いに起因するのかもしれません。けれども、少なくともこの分野において、ジャーナリストが地道な取材を積み上げて記事を書く事は意外と少ないのかもしれないと思ってしまいました。

間違いだったらごめんなさい、、、。

2009年4月 1日 (水)

新年度、さぁ、がんばろう

先日フロリダで
 
「富士山に登ろうと心に決めた人だけが富士山に登ったんです。 散歩のついでに登った人はひとりもいませんよ。」-ジョージ秋山『浮浪雲』-
 
なんて言葉があることを、教えていただきました。
 
朝、自転車通勤の途中、多摩川を越えるとき、天気がよいと富士山が見えます。最近は、その度にこの言葉を思い出すようになりました。
 
僕は山に登らないのですが、とても納得する言葉だったからです。そして、このメタファーは、仕事、ダイエット、趣味など、はてな人生観まで含め、いろいろな事に当てはめる事ができると思います。
 
山の高みは富士山でも、エベレストでも、高尾山でもいいと思いますが、「登ろう」と思わなくては行くことはできません。
 
そしてそこへ至るまでには先が見えなくなりそうな、様々な過程が多く存在しているのが通常です。富士山の麓には樹海なんてのがあってそこに迷い込んでしまう人もいると思います。(多分僕もそう。)
 
でもそこを越えて高いところへ行った人も楽ではないようです。
 
「人間の目的は、富士山に登るようなものじゃと俺は思う。登りゃ登る程急峻困難になって来る。」 -徳富蘇峰-
 
いやいや、辛そうです。こんな事なら富士山に登ろうなんて思わなければ良かったと後悔するもしれません。でも、こんな言葉もあります。
 
「山登りで全員が頂きを目指さなくてもいいんですよ。頂きを極める楽しみもあるけれど、山麓を散歩する楽しみもあるわけで。」 -高橋良輔-
 
周りの景色を楽しんだり、路傍の花を楽しむ余裕を持っても良さそうです。
 
でも、つらそうだからと言って、こんなのはやっぱり避けたいと思うのです。
 
「頭のいい人はいわば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみこんで東京へ引返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。」 -寺田寅彦-
 
だいたいそういう「頭のいい人」はええ格好しいだと思います。
 
そうではなく、まずは山に登って実感しようと。
 
登る山の高さは最初は低いかも知れません。でも、みんなで力を合わせてつらさも含めて楽しみつつ、山を高くして、行けるところまで行ってみたい、そんな風に思います。

2009年2月26日 (木)

C型肝炎ウイルス感染とオクルディン

最近目にした興味ある論文の話。

C型肝炎は世界の肝疾患の主要な原因で、新しい治療法の開発が望まれています。けれども、特異的な抗ウイルス治療法やワクチンの開発は、簡単に利用できる小動物の疾患モデルがありません。

C型肝炎ウイルスは人とチンパンジーにしか感染せず、特殊な実験系でのみウイルスを増殖させることができます。このモデル不足のため、C型肝炎の薬剤開発研究が進まないと言われています。

これまでの実験で、ネズミの細胞内でもC型肝炎ウイルスは自己複製をすることが可能だとの観察があるのだそうです。この結果から、C型肝炎が人とチンパンジーにしか感染しないのは、ウイルスが細胞の中に入る段階でブロックがあるのではないかと想定されます。いったん細胞の中に入ることができれば、ネズミの細胞でも増殖できる訳ですから。

C型肝炎ウイルスが細胞に入って感染が成立するためには、CD81, Scavenger receptor class B type I (SR-BI), claudin-1 (CLDN1)などが必要だということがこれまでわかっていました。今回、これらの他に新たにoccludin (OCLN) が必要であることが報告されました。

さらに、面白いことに、C型肝炎ウイルスは、ネズミのSR-BI、CLDN1を、人のSR-BI、CLDN1と同様に利用することができるらしいのですが、CD81とOCLNは人のものしか利用できないのだそうです。CD81とOCLNがC型肝炎ウイルスの種特異性に関与していたということになります。

OCLNを強発現すると、これまで感染できなかった細胞にHCVが感染可能になり、HCVが感染可能な細胞でOCLNの発現を減弱させると、HCVは感染できなくなるのだそうです。

論文ではこの知見から、今後簡便なC型肝炎モデルを作製することが可能になるのではないかと述べています。

CLDNやOCLNなどは細胞間結合構造のひとつのタイトジャンクションを構成する因子です。

C型肝炎の話でタイトジャンクションの話が出てくるとは思いませんでした。

CLDN、OCLNを発見された月田先生の本(感想文はこちら)を思い出して、(天国にいても)純粋に喜ばれているのではなかろうかと思いながらこの論文を目にしました。

論文のリンクは下記です。

http://www.nature.com/nature/journal/v457/n7231/full/nature07684.html


小さな小さなクローディン発見物語―若い研究者へ遺すメッセージ Book 小さな小さなクローディン発見物語―若い研究者へ遺すメッセージ

著者:月田 承一郎
販売元:羊土社
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2008年11月16日 (日)

臨床研修指導医養成ワークショップ

『臨床研修指導医養成ワークショップ』というものに参加してきました。

場所は富士山麓にある研修施設。泊まり込みで2日間、計16時間のコースです。移動時間は含まれていませんからスケジュールはかなりタイトです。これは仕方がありません。

研修が義務化されているのに、それを指導する側の質がバラバラでは確かに片手落ちです。その意味では必要なものなのだと思います。このワークショップを修了すると、大学病院長ならびに厚生労働省医政局長の連名による修了証が交付され、臨床研修指導医のバッジがもらえます。

「養成ワークショップ」ではその指導のための『理想的なスキル』について学びます。その方法は確かに有効です。指導医として、学び習得する事が望ましいのは理解します。

しかし同時に、丁寧な指導はtime consumingであることも事実です。それが実現できれば素晴しい。

でも指導医にはキビシいものだと思います。

だって、『指導医が時間外労働をしていても、研修医に一緒に時間外労働する事を強いてはならない』という事も同時に教え込まれるのです。

これはちょっと変な感じがしました。だって彼らだって、実際に仕事を始めたら通常の労働時間内に仕事が終わる事なんてないですよ。でも研修医の時間外勤務は強要するなという事のようです。

しかし指導医は通常業務に加えて丁寧な指導をする事が強要されるのです。

今の研修医は守られているなぁ、と感じます。しかしそれで良いのだと信じる医師が指導医となったらどうなってしまうのだろう、とちょっと思いました。

ワークショップ内で研修医のモチベーションをあげるための方法についてさんざんやったのですが、指導医のモチベーションを揚げるためのことは殆どふれられませんでした。アピールしてみたのですが、のれんに腕押し、という感じでした。

今回のワークショップで学んだ技法は有効に利用したいと思います。それと同時に、指導医のモチベーションはどうしたら維持されるか、真面目に考えたいと思いました。

全国の私立医科大学で臨床研修指導医の資格取得者は3000人ほどだそうです。僕たちの大学にはそのうちの300人がいるそうです。これはすごい。人数の多いところを生かして、一人当たりの負担が少なくなるように出来たらいいと思います。

ところで、この研修施設の売店は、一日24時間のうち、開いているのはたったの1時間でした。昼と夕方の30分ずつ。中をのぞいてみると、駄菓子やカップラーメンなどがこじんまりとおいてありました。

今回の経験の中では、このやる気のない売店が最も強い印象を残しました。当面忘れられそうにありません。

2008年10月29日 (水)

カメ 後期臨床研修制度について考える

今、職場でホームページ(HP)の作成を仰せつかり、様々な雑事の一つとしていくつか文章を書いています。その一つに、後期臨床研修を受けるドクター向けのものがあります。

どうせ公開されるものですし、

その公開はしばらく先になりそうだし、

折角書いたし、

忙しくて他に文章書いている暇もないし、

色々なご意見がいただければそれも参考になりますし、

と言うわけで、ソフトウエアのβ版みたいな感覚で、ブログバージョンにしてここで公開しちゃおうかな、と考えました。

もともと、若い人に向けての文章だったのですが、ブログバージョンにしているうち、いつの間にか矛先が自分に向いてしまい、書きながら背中で大汗をかいてしまいました、、、。

HPに載るのはちょっと違った形になるかもしれませんが、(少なくとも途中までの)大筋は変わらないつもりです。

今、僕の考える消化器内科の専門研修としての後期臨床研修は、イメージとして こんなものでないかと考えています。

近年、医療崩壊が叫ばれる中、制度疲労をおこしたこれまでの医療制度が大きな変革期を迎えています。この変革期にあっては、臨床研修制度も例外ではありません。改革の対象となります。

しかし、どのような研修が理想的なのか、暗中模索が続いているのが現状です。このため、国レベルでの臨床研修制度改革に加え、多くの施設で臨床研修のシステムがshort termで変更される傾向にあります。

それでも、国家試験と内科初期臨床研修については多くの情報があります。システムも整ってきています。一方、後期臨床研修についての情報は、施設ごとに個別の情報が五月雨式に提供されているに過ぎません。

新制度を考えていた時から長期的展望が存在し、後期臨床研修システムの改革が視野に入っていたようにはとてもみえません。今になって(慌てて)システムの策定にあたっている、恐らくそれが多くの施設における現状だと思います。

しかし、良医育成のために必要とされる基盤が突然変わったわけではありません。システム等によらず学ぶべき「変わらない本質」は存在しているはずです。

その存在を信ずるあまり、それを伝授するシステム構築が軽視され、後手に回ってしまった、とも言えると思います。昔ながらのエネルギッシュなドクター達が、教育論をべらんめぇ調で熱く語るとそんな感じになりそうな気がします。

これは決して悪い意味で言っているつもりはありません。その様なドクター達に素晴しい人たちがいる事は見てきたつもりです。

ただ、この様な時代だからこそ、研修を受けるドクターは、システムに惑わされてはいけないのです。「変わらない本質」を見極める事が大切です。

惑わされやすいのは専門医という資格の誘惑だと思います。

今、多くの施設で 専門医資格を効率よく取得出来ることが唱えられています。

でもこの資格は「変わらない本質」を保障するものではありません。必要とされる一定のレベルを保障するためのものです。それは、専門医試験の多くが合格率80%以上であることを見れば明らかです。

努力は必要ですが、受験資格さえ得られれば、本質的な意味でのハイレベルを要求するものではないのです。

この意味で、効率的な専門医取得を第一の目的として研修先を決定するのはいかがかと思います。

根幹となるものを形成する事ができるような研修ができるかどうか、曖昧な言い方のようですが、そんな事を考えるべきだと思います。

消化器内科医としての習得すべき「変わらない本質」とは何でしょうか。それは、技術の習得と内科的診療の両立であると考えます。

技術の習得に関連して、消化器内科領域の大きな特徴は、扱う臓器の数にあります。

診療範囲は、上・下部消化管、肝臓、胆道、膵臓にわたります。それぞれの臓器の疾患を診断するために特徴的な検査が存在します。実際の診療に際しては、消化器のみならず、他科の疾病に関連する症状、所見にも多く出会います。消化器疾患の診断のみならず、他領域との関連性も的確に診断しなくてはなりません。

さらに、この検査技術を基礎に、高度な治療技術を習得する必要があります。

治療に関しては、穿刺、切開を伴う侵襲的な治療以外に、薬物療法を主体とする内科的治療も重要です。現在の内科治療にあっては、抗癌剤やインターフェロンのような副作用の強い薬剤も、必要に応じて使用しなくてはなりません。この様な薬剤の選択と使用にあたっては内科的な知識と診療技術が特に重要となります。

また、病状によっては、外科や放射線科などとも緊密な連携をとって治療計画を策定する必要のあることも多くあります。以上から明らかなように、治療方針の決定や、他科コンサルトのタイミングなど適切な臨床判断のため、幅広い知識と臨床経験が必要とされます。

最後に、消化器内科領域は、癌を含む様々な疾患の終末期に立ち会う機会も多い領域です。

このため、患者さんの様々な症状に対するケアが治療の中心となる事もあります。この場合、ご家族も含めた精神的、社会的な配慮が必要で、これは簡単にパターン化できるものでもないし、するべきでもないものだと思います。こういった経験を積むことも、大変重要なことです。

専門教育というのは一生続くものだと思います。知識も技術も進歩は留まるところを知りません。いずれも上を見ればきりがないくらい、沢山知っている人、上手な人がいます。

文章を書きながら、自分の未熟を改めて自覚し、その事を強く感じました。どんなに最先端の専門研修を受けたとしても、本人が進歩しなければ時代に取り残されてしまいます。

未熟でも進歩にしっかりとついていく事は将来も要求され続けます。

結局、学ぶべき一番の事はself educationの方法を身につける事だと思います。

ただ、これは医者になってから、専門家になってから身につけるような類いのものではないですね。

いつでも身につけられるけど、早く身に付けないと追いつけなくなります。

僕は今からウサギにはなれないけれど、ガッツのあるカメになりたい。

それにならなれそうな気がします。

2008年10月20日 (月)

がんはなぜ生じるか

 
「がんはなぜ生じるか。」
 
なんて大きな題でしょう。答えなんてあるのでしょうか。本当の意味で「答え」を知っている人はいないのと思います。それがわかっていれば、現在までに、もっと有効ながんの治療法が開発されていたことでしょう。
 
さらに、その答えは一つではないかもしれません。実際、内容を見てみると、化学物質から放射線、微生物にいたるまで、さまざまな物事が発がんに関わる事がわかります。
 
このような現状で、「がんはなぜ生じるか」という問いを投げかけられたとき、専門家であっても答えは人によって違ってくると思います。その違いは、その人の専門分野、経験、あるいは世界観、生命観によって、生じてくるのではないかと思います。
 
本書はフリーラジカルの発癌への関与を提唱した筆者が、その世界観に基づいて発がんの原因にかかわるものを整理分類し、それらがいかに研究されてきたのか、歴史的な視点を交えて語ったものです。
 
文章は硬いですが、一般の読者を想定していて、専門知識がなくてもわかるように書かれています。
 
この一冊で全てを網羅するとは思いませんが、いわゆる発がん物質を中心とした発癌に関わる知識をコンパクトに整理するには良いと思います。
 

2008年10月 8日 (水)

ノーベル賞と報道

ノーベル賞について。今日の話の本質は、自国贔屓をしすぎるマスコミの問題だと思います。

ノーベル物理学賞を3人の日本人の先生方がとられました。

とても素晴しいことだと思います。どんどん大きく報道していただきたいと思います。

報道をみていると、右へ倣えとばかりに素晴しいと褒めたたえています。アナウンサーの方々の解説者への枕詞は「難しくてわからないんですが説明していただけますか。」これは本当にそうなのでしょうし、わかりやすく説明していただくことに依存はありません。

一方で解説者は、「彼らがノーベル賞をとるのは当然のことである。むしろ、なんであの人達にノーベル賞が今までこなかったことのほうが不思議である。」みたいな説明をします。

でもそんな解説をするのは日本人がノーベル賞を受賞した時に限られます。

また、「これを機会に子供達が科学に興味を持ってもらえば、、、」みたいなコメントを多く聞きます。全く同意しますが、報道姿勢にはなんとなく違和感を感じます。

例えば、他のノーベル賞はどうでしょうか。前日報道されたノーベル医学生理学賞のほうどうのなんとあっさりしていたことか。国籍を別にして、「なんであの人達にノーベル賞が今までこなかったんだ」という解説がなされることはまずあり得ないでしょう。

一般の人々が科学に興味を持つことを目指すのであれば、他のノーベル賞ももっと大きく取り上げ、フェアな解説を報道するべきだと思います。科学は国籍によって左右されるものではありません。

日本人以外の人がとったノーベル賞であっても、イイじゃないですか。毎年この季節にノーベル賞について、科学について熱く語る、なんてそんな土壌が出来上がることを目指すべきだと思います。

2008年5月19日 (月)

自分で考えるということ Appendix

こどもの日から延々とつぶやき続けてきましたが、とりあえず今日で一段落のつもりです。

自分で考える知力を身につけるために参考になるかと思われるのは米国で進められているPROJECT 2061と呼ばれる教育改革です。

何度か紹介させていただいていますが、これはハレー彗星が地球に近づいた1985年に始まりました。そして、次にハレー彗星が還ってくるころの子供達の教育に役立てようという事からこの名が決まりました。実に76年がかりの壮大なプロジェクトです。

1989年にProject2061の提言Science for All Americansの初版が発行されました。そして最近、Science for All Americansの日本語訳がインターネット上で公開されました。翻訳そのものは2003年頃になされたもののようです。その経緯の細かいことはわかりませんが、今になって公開されたと言うのは、以前に紹介させていただいたサイエンス系Bloggerの方々の動きがきっかけの一つになったのかもしれません。

Science for All Americansを読んでみると、そこで展開される内容は大変参考になります。「for All Americans」と銘打つだけあって、文型、理系の枠組みを超えた科学的世界観が示されます。言及は科学、技術、数学の違いと相互関係に始まり、社会的、文化的側面にまで及びます。そして科学、技術、数学の本質について深く理解し、自ら考えられるようになることを教育の目的とします。

「この世界は理解可能である」と、言い切ってしまうところなどは、良くも悪くもアメリカ的、という感じがしないでもありません。

一方で科学的知識は様々な確からしさを持つ概念から成り立つもので、全ての問題に完全な解答を提供するものではないと言うことを明確に宣言しています。この辺のバランス感覚や、随所に出てくるポリカルチャーを意識した言い回しにも良い意味でのアメリカらしさを感じます。

また、「科学とや何ぞや」の議論と共に、科学がいかにして「常識」を乗り越え、新たな理解に到達してきたのか、その歴史が語られます。この歴史の部分なんかは、学校でやってくれればすごく面白いのになぁ、と思いました。(読みながら浪人時代に勉強した「大学入試 必修物理」を思い出しました。今はもう絶版となってしまった物理の受験参考書ですが、ここで語られているようなエッセンスに満ちていたように思います。)

この本は数百人の科学者や教育関係者が関わって作成されたものだそうです。日本で同等のことが可能なのか、ちょっと疑問に思いました。コミュニティへ参加することについての意識の違いがそこにはあるような気がします。

ともあれ、ここで示される内容は自然科学にとどまらず、経済学や社会科学などにまで広がります。それは科学が人間的な営みだからです。そして、その知識を用いて現在の世界はいかに理解されるのかが示されています。教育をする人がこのような視点を持っているかどうかによって、科学教育の質に大きな違いが出てくるものと思います。

翻訳なので読みづらいところも確かにあります。文化の違いを感じるところもあります。(計算機の使用についてなどはあまりに肯定的で違和感を感じます。)しかし、読んでみると、大変納得させられるところがたくさんあります。特に科学そのものについての考え方、科学的知識に基づく世界観、そして幅広い基礎教育の重要性について、認識を新たにしました。

特に教育に関わる仕事をされる方には広くお勧めしたいです。

Science for All Americans: Project 2061 Book Science for All Americans: Project 2061

著者:F. James Rutherford,Andrew Ahlgren
販売元:Oxford Univ Pr (Txt)
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2008年5月17日 (土)

自分で考えるということ7

「学問」とは何ぞや、という定義の話はここでの主題ではありません。

しかし「学問」と「知識」が異なるものである事に異論はないでしょう。

かつて、アインシュタインは「想像力は知識よりも大切だ。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。」と言いました。

知識は学問を深める為に必要で、学問の結果として新たな知識が貯えられるのだと思いますが、知識そのものは学問の目的でも学問そのものでもありません。けれども僕達は、計量しやすい知識を学問としてしまいがちです。アインシュタインの言葉はそれを戒めるものだと思います。

情報量が膨大な現代、学問の領域においてすら知識そのものが目的とされがちに感じるのは僕だけでしょうか。

この議論の最初にたちもどれば、情報過多であるが故、学問においてもニュース番組同様、情報処理が目的になっているように見える瞬間があります。

もしこの印象が正しければ、世の中の風潮が深い思索を評価する方向に向かわないのは当然であるように思われます。学問までがその有様では高い知性を養う教育など実現しようはずが無いからです。

学問を通し、知識を深めることも大切だと思いますが、僕は、それとともに知力を養おうとする姿勢を忘れずにいたいと思います。

2008年5月15日 (木)

自分で考えるということ6

短絡思考が幅を利かせる社会的風潮にある中、僕は「学問の大切さを認識し、学問へ回帰する事」が再認識されていいのではないかと思います。

これは、子供達の学力低下を危惧する、「ゆとり教育」の反省の様なものとは少し違います。「勉強が足りないから勉強を増やせばいい」式の議論を展開するつもりはありません。

僕の言いたい「学問への回帰」は、むしろ「ゆとり教育」によって達成されるべきであった事だと思います。学問の道を選んでまだ日の浅い僕ですら、前述のようなマスコミによって報道されている「学問」は、非常に浅薄で、インパクトだけを求めるものや、時流に追随するだけのものが多いのが現状であると思います。

「科学的」を標榜する番組で捏造報道があった事は記憶に新しいところです。捏造が論外だとしても科学報道に大きな変化が見られていないと思われる事は先日述べた通りです。

その様な浅薄なものを追い求めれば、知識や技術に偏り、短絡的な思考しかしない傾向が助長されるだけでしょう。その様な場合、測定可能なものが評価され、受験などに強い、記憶力や、短時間の問題解決能力に重点がおかれやすくなります。

一方で、問題発見や問題設定の能力や、諦めずに考え続ける粘り強さといった知力を育むための視点が置き去りにされてしまうでしょう。知力のないままに知識を振りかざせば、知識に振り回されて腰の据わった学問ができようはずがありません。

僕は、学問から、表面的な知識ではなく、その底流にある知性や哲学を学びたいと思います。そこで学んだものは測定しにくいかもしれませんが、真に応用可能な知性足りうると考えますし、そこに悦びを見出すことができるからです。

世の風潮が軽薄短小であったとしても、少なくとも自分はそう言った本質的部分を忘れたくないと思います。

2008年5月13日 (火)

自分で考えるということ5

もはや僕など仲間に入れてもらえなくなった若者文化を見てみると、短絡的思考の傾向はさらに明らかです。重症化しつつあると言っても良いでしょう。

僕が若かりし頃は「軽薄短小」と言われたものですが、もはやそれが標準となりこのような四字熟語すら使われなくなりました。そして「空気を読む」とか「〜っぽい」などという雰囲気や外見が判断基準となっています。

携帯メール、ブログなどでは顔文字や絵文字が氾濫し、雰囲気をかもし出す事に大きな役割を果たしています。

確かに文字、活字では伝えきれないものもあるでしょう。技術が文字の不自由さを克服して行く様を見ているとも言えます。かつてテレビ、ラジオ、電話などに押され気味だった文字文化が、現代においてはインターネットや電子メールと言った技術革新によって復権した様に見えます。

しかし一方で、不自由な制約の中で磨き上げてきた言語技術が、技術革新によって退行しているという側面もあると思います。しかもそこで役割を果たしているのが象形文字ならぬ、絵文字なのですからなんとも皮肉です。

技術革新によりコミュニケーションが楽になっているのは間違いありません。僕はこの点を否定するものではありません。新しい文化の創出も期待できます。

しかし、楽をすることによって失われる可能性のあるものに目を向ける事も大切だと思います。

特に言葉について考えれば、高度な言語能力は緻密な論理をくみ上げる為に必須です。そしてその鍛錬が高い知性を育むのだと思います。

ひとつの問題が提起された時、正解へ至る道は必ずしもひとつではないと思います。 正解もひとつではないかもしれません。問題の設定如何によっては正解すら存在しないこともあるでしょう。 粘り強い知力を育む為には、言語能力は不可欠です。

この点において、僕達は退行傾向にあるのではないでしょうか。

2008年5月11日 (日)

自分で考えるということ4

僕がニュース番組を見る時、「どんな風に考えているか」を考えてみました。

前回まで書いてきた記事のごとく、僕自身、意識する、しないに関わらず、「答」が提供されるニュース番組を見ると、それを参考に「自分の意見」を構成しようとします。

そしてその「自分の意見」を検証するため、他のニュース番組を見たりします。この様な姿勢でニュース番組を見る時には、解説の少ない、情報提供に主力を於いた簡潔なニュース番組に物足りなさを感じます。

一方、「自分の意見」と異なるような事を述べるキャスターに対しては、議論が出来るような気がして、ニュースの解説に聞き入ります。

多くの場合、別のニュース番組で、全く新たな視点が提供されることは殆どありません。前のニュース番組で形成された「自分の意見」と次のニュース番組で提供される「答」に多少の差異はあっても大きな隔たりがないと言うことが再確認されます。

この事は、各局から報道される「答」とそこれをもとに導きだしたつもりの「自分の意見」が似通っている事を示しています。 そして多少の差があることがまた、表面的な議論を可能とするため、自分で考えているような満足感を醸し出します。
 
それぞれの情報について効率良く結論を導く。この過程も可能であれば他人の手を借りて省略する。そして周りを見て自分の中での落ち着きどころを決定して一件落着。そうすることにより大量の情報を消費し、忘れ去って行く。それが情報にあふれる現代社会の現実の様に見えます。

そこに独自の思索を巡らす余裕は見出せません。恐ろしいのは、それでも考えているつもりになれる所です。

ソースが同じですから各人が情報から導き出したと思っている「答」は同じになります。こうして気づかぬうちにステレオタイプ的な世論が形成されるのであれば危険なことです。

2008年5月 9日 (金)

自分で考えるということ3

前回からの続きです。

暗いニュースばかりではありません。40年以上前にリチャード・ファインマンは次の様に語っていました。

「今日なにか生理学の発見があると、新聞が必ず使う決まり文句は、皆さんもご存知でしょう。『発見者によると、この発見はガンの治療の役に立つかもしれない。』ところが、いざ発見されたそのもの自体の価値となるとてんで説明もできないありさまです。」(「科学は不確かだ! 」 R・P・ファインマン著)

今でも似たような報道をよく目にします。半世紀近くもの間、新たな発見に同じような「答え」がお約束のように報道され続けていることになります。そうしてみると、簡単に「答」を求める傾向は昔からあったのかもしれません。

簡単にその場だけの「答」を求めた結果として、記事のfollow upがなされず、忘れ去られていきます。その「答」の正否について検証がなされる事なく、同じような「答」が提供され続けます。この点に於いて僕達の進歩は驚く程遅いようです。

どうして情報と共に「答」が提供されるようになったのでしょう。

僕は情報過多がその一因であると思います。

情報技術革命の結果、僕達は、世界中の様々な情 報を簡単に知ることができるようになりました。そのなかで情報処理能力の重要性が増したことは論を待ちません。

一方で、僕たち個人の情報処理能力には限り があります。個人としてのレベルで見れば、情報提供のされかたにより処理効率が大きく変わりますから、そのような形での情報提供が好まれます。

この要求を 満たす条件に、簡単に要約されている事が挙げられます。それにより情報を処理しやすくなるからです。しかし、いかに要約されていても他の情報とのつながり や解釈に時間がかかると、処理できる情報量は限られます。この過程にも労力と時間が必要だからです。

その結果、好まれる情報提供に、新たな条件が加わりま した。

それは要約の末尾にその情報の解釈、「答」が簡単に示される事です。ニュース番組の解説者の役割です。これにより能力のいかんに関わらず多くの情報 を処理できた気になれます。

2008年5月 7日 (水)

自分で考えるということ2

僕たちの周りには、その様な報道、議論があふれています。僕達も「答」を短絡的に求めすぎている様に思います。

緻密な論理をくみ上げ、独自の主張をするような報道は、なかなか高い視聴率をとれなさそうな気がします。他と同じ「答」を提供したほうがはるかに受けが良いでしょう。自分の考えを整理して論理的に述べる事は、聞き手の立場からも歓迎されにくい時代になってきているようです。

キューブラー・ロスは、不治の病におかされた人が死を受容する時、「衝撃→否認→怒り→取引→抑鬱→受容→希望」という過程をたどることを丹念なインタビューから導きだしました。(「死ぬ瞬間」E・キューブラー・ロス著)

この受容の過程は不快な知らせを受容する時に経験する心理状況と同様の過程と見る事が出来ます。

事件やスキャンダルの報道においては最初の衝撃の大きさをいかに強調するかにまず力点が置かれます。

そして次に語られるのが「こんな事があって良いのだろうか、いや良いはずがない」と否認の段階です。さらに怒りの感情が語られます。

ものによってはその背景を探ろうという姿勢が見られるものもあります。これは「取引」の段階に相当するものと言えるかもしれません。しかしその殆どは興味本位な個別の事例の検討に留まり、 その事例がいかに異常であるかを強調する事に力点が置かれます。

結果として、「否認」や「怒り」の段階に逆戻りすることとなります。 異常性を生み出した社会の側に潜む異常性についての考察などを通し、議論が一般化にまでたどり着く事はまれです。

「希望」が見いだされるような提言がなされる事はありますが、それが「抑鬱」や「受容」といった熟成段階を経ているかと言えばどうでしょうか。僕には多くの報道が「怒り」の段階にとどまったまま、結論を急いでいる様に見えます。

一方で、その報道が自分の意見に影響を与えている事に気付く時、自分でものを考える事の難しさを改めて感じます。

2008年5月 5日 (月)

自分で考えるということ1

ニュース番組などを見ていて、「最近の我々は物事を深く考えなくなってしまったのではないか。」そう思うことが多くなりました。自分の20年くらい前を振り返れば、何も考えず勢いだけで日々を過ごしていたような気もします。すると単に僕が年をとったという事なのかもしれません。

けれども、医療問題、環境問題など、●●問題に関する報道を見ていても思うのですから深刻の様に感じます。これらは多くの要因に影響される複雑で多面的な事項で、本来深い考察が必要と思われるからです。

テレビなどでは放送時間などの制約があり仕方のない側面もあるかもしれません。しかし「問題」が報道される時、それについての「答」がセットで提供される事が多い点が気になります。

キャスターが「問題」を放送し、解説員にふる。解説員が簡単に「答」を提供し一件落着。次のニュースへ。という形で淡々と進んでいきます。提供される「答」が「これで良いのでしょうか?」と言った疑問文で提供される事も多くあります。

いずれにせよ、その「答」は報道する立場に立つ人たちの「視点」であり「意見」にすぎないはずです。しかし、その「答」がテレビ局や番組によって大きく異なることはあまりありません。そして「答」がいつの間にか空気のように僕達を取り囲みます。

2008年3月24日 (月)

Science For All Americans翻訳プロジェクト

以前の記事でふれたことのある「Science For All Americans: Project 2061」の翻訳プロジェクトが面白い形で進んでいるようです。

「Science For All Americans」は「全てのアメリカ人」のみならず、僕を含む「多くの日本人」、特に教育改革に携わるような人は参考として一読する価値のあるもののように思います。

『協力型ブログ上翻訳プロジェクト』とでも言うのでしょうか。ブログを書いている人たちが、それぞれに分担して、それぞれのブログ上で全訳しちゃおう、というものです。

Science For All American勝手に翻訳プロジェクト、協力者募集のお願い

Science For All Americans翻訳プロジェクト

最終的にはそれを一つにまとめて公表することになるのでしょう。そこへたどり着くまでには、権利関係を初めとする障壁を乗り越える必要があるのかもしれません。でも本質的な問題はなさそうに思いますし、うまくいって欲しいと思います。

250ページを超えるような報告書が、スゴいスピードで翻訳進行中のようです。こう言った試みは素晴しいと思います。

僕もちょっと参加できればと思いましたが、余りに余裕がないので今のところ、残念ながら参加は断念しています。

とはいっても、このプロジェクトのアイデアは素晴しいと思いますので、自分に少しでも余裕があればお手伝いしたいと思いますし、参加の表明はできないまでも、賛意の表明くらいはしたいと思います。

プロジェクトが成就するよう応援しています。

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