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医系小論文

麻布中学「ドラえもん問題」

東京の名門、麻布学園の今年の中学入学試験問題で次のような問題が出されたそうです。

<「ドラえもん」がすぐれた技術で作られていても、生物として認められることはありません。それはなぜですか>

この問題、だいぶ話題になっているようですね。

今日、Facebook で友人がとりあげ、先日、飲み会の席で別の友人からも聞きました。「正解」はネット上の記事にゆずるとして、僕の勝手な考えを記しておこうと思います。

僕の答えはこうです。

『「ドラえもん」がすぐれた技術で作られていても、生物として認められることはないのは、「すぐれた技術」が実はまだ「未熟」だから。』

その理由は、現代の生物学のよって立つ足下にあります。

かつての生物学は博物学でした。あんな生き物がいる、こんな生き物がいる。その生態は、、、、。そしてそれが論理的に説明できるようになり、パスツールにより、実験とその再現性の重要性が認識され、近代生物学が確立しました。

その後、クロード・ベルナールの『実験医学序説』などが著され、医学にもこの考えは及びます。(この本、僕の本棚に鎮座ましましたまま、放置されています。いつか読みたいと思っているのですが、、、、)

その後、生物学、医学は、生理学、生化学、分子生物学などの分野において目覚ましい発展を見ます。そしてその進歩を礎に、現代の医療が成立しています。これは今後当面変わる事はないでしょう。

ここで発展してきた学問は博物学とは全く違います。メカニズムを探求するものです。「メカ」という言葉に表されるように、機械論的世界観がここにあります。

生物を機械と捉え、その構成要素を部品のごとく考え、そのメカニズムを探求すること。

この事こそが現代の医学、生物学を支える根幹に立っているのだと思います。

そして、問題の中にとりあげられたとされる生物の特徴、

(1)「自分と外界とを区別する境目をもつ」
(2)「自身が成長したり、子をつくったりする」
(3)「エネルギーをたくわえたり、使ったりするしくみをもっている」

のいずれも、その「メカニズム」が今でも研究対象となっているのです。

ですから、この観点からすれば、ロボットによって再現できていない、生物の特徴は、人間の知識、理解、技術のいずれかに理由があるのだということになります。

このような世界観によってかつてあった「生気論」の復活が試みられたこともあったようですが、僕の知る限りにおいては失敗に終わっています。少なくとも、機械論に依拠した価値観、方法論で「生気論」の正当性を証明することはできないようです。

また機械論に依拠した世界観で生命を「組み立てられる」可能性を感じさせる実例もあります。

大賀ハスやクマムシです。

大賀ハスは2000年以上も種子の状態で時を過ごしたのち、発芽して花を咲かせました。現代の常識では種子はエネルギー摂取をして代謝したりすることはありませんから、2000年もの間、種子を構成する分子は「静止」していた事になります。それを部品のごとく組み上げれば、大賀ハスが出来上がるはずです。

クマムシも同様です。クマムシは水分が不足すると全身を硬い殻で覆った「タン(樽)」という状態となります。この「タン」は、絶対乾燥状態、100℃を超える高熱、絶対0℃に近い低温、数万気圧の高圧、真空、紫外線、放射線など、地上で考えうるあらゆる極限状態に耐えることができます。しかも、水を与えるとたちどころに、もとのクマムシにもどるとのこと。この「タン」ももしかしたら「組み上げられる」かも知れません。

このように思ってみると、機械論的立場からは、厳密に言えば、生物と機械に差はないことになります。

そしてその立場から、現代の医学、医療が成り立っているのです。

もちろん我々の知識、理解、技術はそのいずれもが、ドラえもんにすら遠く及ばない未熟なものですから、この点を理解して現実を見つめなければなりません。

機械論を超える世界観が示されるのか、機械論が究極まで発展し、神をも脅かすほどのSF的発展をとげるのか、妄想するのは、ヒマツブシとしてはなかなかに愉しいものです。

温故知新

最近読んだ本「僕の死に方」のはじめの方に、著者の金子哲雄さん診療を嫌がる医者たちが登場します。

治療法を求め、藁をもすがるような気持ちだったであろうに、門前払いもされたとのこと。

金子さんは深く傷つけられました。

そのことについて、具体的なコメントをするつもりはありません。「門前払いをした医者」の側からの話も聞かなくてはフェアではありませんし、金子さんが想像した、「医者が自分を門前払いした理由」にも全面的には賛成しかねるからです。

ただ、たとえ誤解があったとしても、医者の言動により、患者さんが傷ついたことは確かです。

あくまで個人的な印象ですが、一般論として、その様な局面は、かつてより増えているように思います。

その背景の一つに、医療の考え方がパターナリズムからパートナーイズムに変化してきたことがあげられると僕は思っています。

ざっくり言えば、親が子に接する様に医者が患者さんに対する、というのがパターナリズム。この時、医者も患者さんも相手を選ぶことはできません。そこから逃げることもできません。と、言うか、恐らく、発想の中にありません。それがパターナリズムの考え方。

最近は患者さんの権利が見直され、パートナーイズムによる医療が推奨されます。インフォームドコンセントなんて言うのも、その流れの一つとして理解されます。

互いに相手がパートナーであるなら、互いの立場は対等です。互いに相手を選ぶのも自由です。

元来、患者さんが医者を選ぶのは自由なはずですが、それが権利として、より保証されるようになりました。この関係を突き詰めるなら、医者の側も自分ができることの開示が大切になります。それによって患者さんが適切なパートナーを選べるようになるからです。

でもこれはネガティブな側面も持つと、僕は思います。悪く言うと逃げ道として使えるのです。

そんな側面が象徴的に現れやすいのが病名告知だと思います。

病名を告知することによって、「この病気はあなたの問題です。」「私にできるのはここまで。」と、問題を患者さんに簡単に丸投げできるようになりました。やろうと思えば。告知しない時代にはできなかったことです。多分。

ネガティブな情報を提供するのは難しいものです。何でも引き受けるのがイイとは思いませんが、他人事として丸投げするのもどうかと思います。

そう思った時、告知しなかった時代の医者たちがどう考えてがん診療にあたっていたのかを知ることは、大切な意味を持つような気がします。パターナリズムの考え方に立てば、丸投げなんてあり得ないはずです。

僕の父親は肝臓がんの診療を専門として、ターミナルケアにもかなりの力を注いでいました。

今から四半世紀以上前の話です。当時のターミナルケアは今とは全然違うものでした。

父親が医者として教育されたころは、診断技術も、治療技術も今とはぜんぜん違いました。「がん=死」というイメージが極めて明確でした。

そこでとられた方針は「がんは告知するべからず」。父は医者としてそう教育されました。

そう教育した医者には自分ががんに罹患したとき、「がんを知らない患者」になろうとした方もおられたようです。

父親はそのことに疑問を持つようになりました。そして次第に「がんは告知すべし」という考え方にかわっていきました。

その変遷は父親が生前に遺した「なるがままのターミナルケア」という手記に記されています。これは、1995年頃、雑誌「診療と新薬」に掲載されたものです。

今日、1月28日は父親の命日です。僕にとって毎年この日は、自分の来し方、行く末を考える日になっています。

自分の来し方を確認するため、久々に父親の遺稿集に目を通してみました。

そこにあったのは、「歴史」でした。でも、同時に、医療には変わらぬものがあるのだとも感じました。

そして、温故知新の意味を込め、ネット上でシェアしてもいいかもしれないと思い、今日、『”父の遺稿”「なるがままのターミナルケア」がん診療35年の経験』というカテゴリーにまとめて公開しました。一冊をそのまま公開しても読みづらいと思ったので、僕の判断で適宜分割してあります。目次はこちらです。

特に、若いドクターの参考になることがあれば、父親も喜ぶことと思います。

「僕の死に方」

新年早々の話題としてはちょっと重めですが、、、。

僕の死に方 エンディングダイアリー500日 」を読みました。

僕は全ての人の死にドラマがあると思います。そのなかに、形として遺されるドラマがあります。

筆者の金子哲雄さんは、なくなる前のたった一ヶ月間で本書を書き上げ、「ドラマ」を形として遺されました。

金子さんは、自身がこの世を去ったあとの段取りを全てオーガナイズされました。お葬式で御本人から出席者の方々への手紙が読まれることなど普通経験するものではありません。

体力が病魔によって蝕まれていくなか、自分の死後に想定される様々なことを全て仕切りながら、しかもその間に、本まで書き上げてしまうというのは、正直、すごいことだと思います。

その驚きとともに、この「ドラマ」を読みながら、僕の父親が自分の最期について思い描いていたのは、こういう「ドラマ」だったかもしれない、、、。と、ちょっと思いました。

本書によれば、金子哲雄さんが病気になる前のスケジュールは、まさに分刻みです。これまたスゴいの一言につきます。

若い頃、僕の父も、自分の命を削っていると思われるほど働いていました。父親は国立がんセンターという病院で肝臓がんの診療にあたっていました。

専門は消化器内科。手術以外に根治療法がなかった時代です。内科医は、根治を望めない肝臓がんの患者さんの診療にあたることになります。

当時の肝臓がんは今よりずっと治療成績が悪くて、多くの方がなくなっていました。2010年に発表された第 18 回 全国原発性肝癌追跡調査報告によれば、肝細胞癌の5年生存率は、1978 年―1985 年の9.5%(10人に1人以下)から、1996 年―2005 年の39.3%(3人に1人以上)にまで改善しています。

僕の幼少時の記憶に残っているのは「9.5%時代」よりちょっと前の1960年代後半から1970年代が中心です。

好むと好まざるとに関わらず、父は肝臓がんのターミナルケアに携わることとなりました。

容態の悪い患者さんがいるのはいつものことのようでした。 年間に書く死亡診断書は国立がんセンターで一番だったと聞いています。(毎年そうだったかわからないけれど、少なくともそう言う年はあったとのことです。)

そんな父と遊んだ思い出は僕には数えるほどしかありません。父は、毎朝朝七時に家を出て、夜十時前に帰って来ることは稀でした。日曜に父が家にいたのもあまり記憶にありません。僕が家に居なかったのかもしれないけれど。

当時は携帯電話なんてなかったので、病院からの連絡は電話でした。休日、床屋に行っている最中に病院から患者さん急変の連絡が入ったこともありました。その時は僕が、床屋まで走って知らせにいきました。

そんな、がんで亡くなる患者さんを数限りなく看取った父は、定年退職後、こう言っていました。

「がんはそんなに悪い病気とは思わない。なぜなら、少なからぬ人が死の準備をする時間を持てるはずだから。」

そして、自分ががんになった時、どのようなターミナルケアを望むのか、自分がどのような患者になりたいかを考えているようでした。実際、母との間にはそういう会話もあったということです。

若い頃のハードワーク、そして進行した悪性腫瘍の発見、闘病生活とターミナルケア。

確かに父はそう言う「ドラマ」を思い描いていたと思います。金子さんの「ドラマ」と重なる部分が多くあります。

ただ一点、金子さんの「ドラマ」全体の長さがあまりに短い点を除いて。金子さんの「ドラマ」は想定よりもずっと短いものでした。

僕の父は自分がライフワークとしていたターミナルケアを受けることなく、突然死と言う形でこの世を去りました。何の前触れもなく。

人生は思ったようにいかないものです。

そんな事を思いながら読んでいたらあっという間に読み終わってしまいました。

僕は今年歳男です。金子さんはこの年齢に達する前に他界されました。 でも、僕には、まだまだやりたいことも、やらねばならないこともたくさんあります。あるはずだと思っています。

そう思ってみると、金子さんはさぞかし無念だったことでしょう。

自分も他人事ではありません。あまりストイックにはできないけれど、できる範囲で健康管理を怠らず、健康に感謝しながら日々生活したいと思います。

PS: 個人的には同様の本として『小さな小さなクローディン発見物語―若い研究者へ遺すメッセージ 』の「ドラマ」が強く印象に残っています。



Bad press

以前書いた記事と関連した内容がNature誌の社説に掲載されました。

勉強のために全文を読みましたが、とても納得させられました。

(日本人がどれほど『先生』に対して礼儀正しいかは意見の分かれるところかもしれませんが、、、)

全体としては至極もっともなお話です。また、単なる批判に終わっていないところがエラいと思いました。

この記事に注目したり、報道したりするマスコミが日本にどれだけあるかわかりません。でも、ここで提唱されていることが実践されれば、科学報道の質は確実にあがります。

そうなってほしいと思います。

ただし、情報の受け手である僕たち日本人にも、責任があります。しっかりとその報道の質を見極めていかねばならないのだと思います。

参考までに、以下に拙訳を掲載させていただきます。翻訳における文責は全て僕にあります。

誤訳や不明な点などありましたらご指摘いただければ幸いです。

Bad press
Japan’s media have played a large part in exacerbating the effects of a fraud.

ひどい新聞
日本のメディアは詐欺の効果増幅に大きな役割を演じた。

山中伸弥氏の最近のノーベル賞が森口尚史氏の詐欺行為により汚されてしまったことは恥ずべきことである。森口氏は東京大学の研究員で、祭りのようにしてもてはやされている山中氏の技術、iPS細胞を心不全の患者の治療に用いたという作り話をでっち上げた。

この話を広く報道するに至った質の低いジャーナリズムは、科学報道に関して、日本などの国において、特段めずらしい出来事ではない。

読売新聞の森口氏の「偉業」に関する報道は特に残念なものだったが、今では、日本経済新聞を含む他の新聞も、過去10年にわたり、森口氏の語る未証明の話を報道してきたことを認めている。

研究の本質に難解さが含まれていることを考えれば、科学報道は萎縮してしまいかねない。

そこで、ジャーナリストが専門家を疑うときに助けになる実際的な手順がいくつかあるので紹介しよう。

まず、公表された論文を見ることから始めよう。

全ての科学者はその研究成果を論文として公表する。

もし彼らがそれをしていなければ警戒信号だ。

公表論文では科学者の所属が明らかされる。このため、何らかの疑義があれば、その科学者が自称している場所で、実際に働いているかどうかを容易に確かめる事ができる。(速やかにハーバード大学へメールを一通出していれば、読売新聞はこれ程恥ずかしい思いをしないですんだはずだ。)

公表論文は同時に共同研究者の名前のリスト(これにより科学者がやったと主張する実験を共同研究者に確認する事ができる)、資金供与者名(これにより資金を入手可能であったかどうかの確認ができる)、利益相反の公表(潜在的なバイアスを明らかにする)を記載している。

最も重要なのは、ジャーナリストが、当該科学者と共同研究をしていない、他の研究者たちと、研究の重要性と実行可能性について話をせねばならないということである。

このような研究者は通常、公表論文の引用文献を参照することで見いだす事ができる。

もし出来なければ、そして適切な引用文献が見当たらなければ、これまた警告の兆候だ。インターネットで調べれば、研究者の名前はすぐに見いだせる。

一般的に言って、科学者は文献から不正を排除することに熱心に取り組んでいる。他の地域にくらべ北アメリカやヨーロッパの科学者において、その傾向がより強いと言えることだろうが。

もしその業績が不正なものと思われれば、彼らは指摘してくれるだろう。

勿論、森口氏は彼の最新データはまだ論文として公表されていないと言っていた。

これまた新たな疑問を呼ぶきっかけになっていたはずである。

何故、彼は自分の成果をメディアに最初に公表するのか?

科学者にはそうすべき理由を持つものもいる。森口はそうではなかった。

そしてこの疑問を持てば、彼の経歴や過去の論文をもっとよく調べようと思ったはずである。

ネットで得られる彼の経歴から、彼が革命的な新局面を切り開いたと主張する、その領域で、ほとんど経験がないことが示唆されるのは何故か?

現実には存在していない、iPS細胞研究や臨床応用の大学研究部門で働いていると、彼はなぜ明言していたのか?

そして、一般的とは言えない、そして彼自身が熟知しているとも言えないテクノロジーを、彼はなぜ臨床応用したのか?

彼がNature誌から直接質問をうけたとき、事態はさらに悪化した。

例えば、彼は最新の研究における共同研究者を挙げることを、なぜ拒むのか?

表面的なことをつつくだけで、怪しげな供述が噴出してきたのだった。

世界中どこであっても、人は不正行為をうまくやりおおせることがある。しかし、日本においては特に、不正行為が報告されないという、文化的要因があるように思える。

日本人科学者は同業者に対し批判しない傾向がある。内部告発者は擁護されない傾向があるが、内意部告発者は自分のキャリアに傷を付けたくないと考えているのだ。

また、日本のジャーナリストはお上品すぎる事がある。恐らく、『先生』によってもたらされた素晴しいイメージに及び腰となり、ぶしつけな質問などしづらくなってしまうのだろう。

恐らくは英語に対する自信のなさや、時差が理由となって、彼らが海外の科学者と接触を試みる事はほとんどない。

加えて、最近日本において異常流行している『iPS細胞熱狂症』のまん延が状況を激化させている。

山中氏の先駆的業績についての大騒ぎのため、メディアの支局は新しいiPS細胞ストーリーを最初に獲得しようと押し寄せているが、情報の質を全く気にしていないことがある。

この傾向はiPS細胞技術に愛着を持ちすぎる一部の人たちによって油が注がれている。

多くのニュースが、iPS細胞研究を医学の進歩に応用する国際競争を報じ、日本がその競争に負けそうだと報じている。

この恐怖感が森口氏と読売新聞記者に霊感を与えた。森口氏はiPS細胞研究において、日本は後れを取る危険があると2009年に嘆きのコメントを寄せた(Nature通信欄 Moriguchi and C. Sato Nature 457, 257; 2009)。そして、読売新聞記者は森口氏の研究継続を許すような「臨機応変な」米国の承認制度まで夢想した。

全く馬鹿げたことだ。

iPS細胞技術についての美点と、まさにノーベル賞受賞理由の大きな一点は、世界中の科学者が容易に用いうることなのだ。

もし、山中氏の業績に日本がプライドを示したいのであれば、世界中の全ての進歩に賞賛を送るべきなのだ。

そして、もし、ジャーナリストが、新たな進歩の重要性を本当に理解したいと思うなら、彼らは、その新たな進歩を国際的な視野に立って評価すべきなのだ。

Nature 491, 7–8 (01 November 2012) doi:10.1038/491007b

今朝の『NHK 視点・論点「小児の脳死臓器提供~その次に見えるもの~」』で感じたこと。

大学同期の植田育也先生(静岡県立こども病院小児集中治療センター長)が今朝のNHK 視点・論点「小児の脳死臓器提供~その次に見えるもの~」に出演し、約10分間にわたって語りました。

僕は臓器移植を専門とするわけではないのですが、肝臓を専門として診療するなかで臓器移植をうける患者さんに関わったこともあり、感じるところがあったので、忘れぬうちに感想を記しておきたいと思います。

彼は小児の救命救急を専門としていますので、彼の主張は、まず、NICUとICUの間をつなぐPICU(小児集中治療室)の全国レベルでの整備がまず大切だということでした。これは本当にその通りだと思います。

脳死下臓器提供の議論より先に、こちらの話が十分つくされることが大切です。

臓器移植によってしか救うことのできない命が存在するとはいえ、臓器移植は一定の不幸の上に成立する医療です。とくに脳死下の臓器提供はこれが明らかです。この不幸を可能な限り少なくする最善の努力なくして臓器提供の話はあり得ないと思います。

PICUは全国にまだ数が少ないため、それを増やし、医療環境を充実することは、小児の脳死臓器移植推進と不可分に思えます。

直接は関係ないようにも見えますが、医療環境の充実のみならず、子どもを守るための大人の意識改革も大切なのでしょう。シートベルトを始めとして、自転車安全教育など、やるべきことはたくさんあるように思います。

そうした、重大事故の予防、救急医療体制の整備などを十分におこなってもなお、不幸な結末になってしまった場合に初めて、臓器提供の話を考えてもよいのだと思います。

次に、植田先生は「生」「死」について真正面から議論することを提案されました。いかにも彼らしいと思います。

現在、医学の進歩により「生」「死」の狭間が曖昧になってきています。数十年前であれば、「脳死」「心臓死」を分ける必要はなかったでしょう。

僕はかつて、父から、死亡診断の難しさについて話を聞いたことがあります。

生きているのにご臨終を宣告され、「生きているのに『死んでいる』と言われた」と、泣きながら亡くなった親戚がいたそうです。

また、心電図モニターがなかった時代、父はご家族に部屋から出ていただいたことがあるそうです。そして、患者さんの胸に聴診器をあてたり脈をとったり、亡くなっているかどうか、1人で30分くらい悩んだことがあると言うことでした。

それ以来、僕の中では人の死は徐々におこりうるというイメージがあります。ただ、これはみな心臓死の問題です。

今は違います。そして脳死、心臓死、それぞれが極めて高い確率で正確に診断できるようになりました。その結果、どちらを人の死、家族の死として受け入れるのかという難しさが生じました。

(もしかしたら、脳、心臓以外の細胞までふくめてすべてが死滅した状態を「細胞死」なんていう名前で呼ぶ、新しい死の定義だって、今後、可能となるかもしれません。その議論は別の話として、ここではおいておきます。)

この脳死、心臓死のどちらを人の死と認めるかについて、日本は独自の制度をとっています。臓器提供を考える場合には脳死を人の死としてみとめるのです。医学的に同じ状態の患者さんでも、臓器提供がなされない場合、脳死は人の死として認められません。

このように同じ患者さんが生きているとも死んでいるとも判断可能な状況が存在する制度は、世界に類を見ないものです。

番組では、脳死を人の死として認めるかどうかについてのアンケート調査の結果が示されました。

興味深いことに、欧米各国と比較して、日本では脳死を人の死として認めるかどうか、大きく意見が分かれていました。一般に、様々な分化や価値観が混在するとされる米国よりも、人の死の定義に関しては、日本の方が圧倒的に様々な意見があるようです。

僕はそれで良いと思います。認める人の意見も、認めない人の意見も、それぞれがしっかりと守られてこそ、本当の自由意思による臓器提供が実現されると考えるからです。

ただ一般的に言って、そういうコンセンサスが社会に根付くのには時間がかかるものだと思います。

さらに、今の日本の制度では、日本には脳死を認め、臓器提供をしないという選択肢がないことを植田先生の話で初めて知りました。今の法律が、心臓死をベースとした考えに依拠していて、脳死を死として受け入れる発想を持っていないことを示していると思います。

これからは、臓器提供の意思がなくても脳死判定の必要が生じる可能性も考えていくことが望ましいでしょう。

自分が脳死となった時を考えてみます。もちろんそれに先立つ医療が最善を尽くしたものであることは前提条件です。でも僕が脳死となった時、僕は自分の臓器提供に賛成なので、家族の合意があれば、そこから先のプロセスに問題はありません。

でも、僕が脳死下臓器提供に同意していない場合には、脳死判定は行われることなく、基本的には心臓が止まるまで治療が続けられます。

もし、脳死が人の死として普通に認められば、僕はそれより先、望みのない治療を受けることなく、家族との別れの時間をもつことができるようになります。まだ心臓が動いている状態で。家族がその事実を受け入れられるのなら、それも「あり」ではないかと思います。

これから脳死下臓器提供について真剣に考えるひとが増えれば、「脳死=人の死」という価値観のもと、臓器提供に同意しないというひとが増えてきてもおかしくないと思います。そのような意見、感情に寄り添うことができるよう、法も整備されることが望ましいと思いました。

臓器移植をめぐる環境はまだまだ整備されているとは言えません。成人においても脳死臓器移植はまだまだ少数です。

いろいろな意見を内包しながら時間をかけて命を守る環境を整備し、議論を尽くし、日本における脳死判定と臓器移植が、少しずつ根付くことが、救われる命が増えることにつながるのだろうと思いました。

(実際には小児からの臓器移植でしか救われない患者さんもおられると思います。僕はそのような患者さんを存じ上げません。そんな僕が「時間がかかる」とか、「少しずつ根付くことが望ましい」などと悠長なことを言って良いのか、躊躇する気持ちもあります。けれども、今求められているのは、これまで「対岸の火事」のように思っていればそれですんだような、そういう人達の真剣な議論なのだと僕は理解しています。また、今の自分の頭の中で考えたことを記録にとどめておくことも、今後の自分の考えを深めることの役にも立ちそうに思います。なので、あえてここに記します。)

「治療」は「自然史の修飾」だと思う。

先日、患者さんから質問されました。

治療についてどういう考えを持っているのかと。

いろいろな考え方がありましょうが、僕は治療は「自然史の修飾」だと思っています。

一例を挙げて説明します。

「肝硬変」という病気の患者さんについて、僕が学生時代に習ったことと、今一般に言われていることは大きく変わりました。

今、学生さんに

『慢性肝炎』→

と書いて質問すると

『慢性肝炎』→『肝硬変』

と答えます。

『慢性肝炎』→『肝硬変』→

と書くと

『慢性肝炎』→『肝硬変』→『肝(細胞)癌』

と答えます。学生さんがここまでくる確率はほぼ100%です。

今はマスコミ報道の影響もあり、医療関係者ならずとも同様に答える方は多いのではないでしょうか。

実際のところ、大きく間違ってはいないと思います。でも、

『慢性肝炎』→『肝硬変』→

の答えはそれだけではないのです。

そして、学生さんからは他の答えが出てこないことが多々あります。

僕が学生の頃、答えは『肝細胞癌』『消化管出血』『肝不全』の三つが並列に並んでいました。

たった2−30年で病気が変わるわけではありません。同じはずです。今だって肝硬変の患者さんが消化管出血や肝不全につらい思いをされることはあります。

ではなぜ、後ろの二つが出てきにくくなったのでしょう。

僕は、診断とその診断に見合う治療が進歩したからだと考えています。その進歩はまだまだ十分とは言えませんが。

医療の進歩の結果、命を脅かすものとして最もコントロールのしづらい『癌』がクローズアップされる事になってきた。そして、それがマスコミなどで広く喧伝され、そのイメージが強くなった。一般の方々に比して、医学、医療に関連するニュースへの意識が比較的高いと思われる医学生もその影響を受けた。

その結果、癌以外の答えが出てきにくくなっているのではないでしょうか。

医学生から『消化管出血』『肝不全』といった答えが出にくくなった理由は、そういうことだと僕は理解しています。

自然に『慢性肝炎』→『肝硬変』→『肝細胞癌』という流れだけが大きなものとなってきた、という訳ではありません。

常日頃から医療者と患者さんが、『消化管出血』『肝不全』を予防すべく治療を日々行っているからそうなっているのです。

当然、『癌』についてもやっていますが、『消化管出血』『肝不全』では、その効果がより顕著に表れているのだと思います。

この努力を怠れば、状況は今でも『肝細胞癌』『消化管出血』『肝不全』が並列にならんでいるはずなのです。

これが治療を「修飾」と考える実例の一つです。

僕たちは「病気の自然史」を知るべきなのです。何もしないでいるとどうなってしまうのか。多くの場合、過去の知見があるはずです。そして、そこで予想される望ましくない事態を避けるべく診断・治療を行っていかねばなりません。

残念ながらどれも完全におさえることは難しいですし、肝硬変が治るというのも大変難しいことです。

加えて、もしこれらを全て克服できたとしても、不老不死になるわけではありません。

この点で、医学、医療は人の命を救うことを目的とするものではないと思っています。

結果として人の命を救う事があっても、それは一時的な結果であって、一般論として語る場合、「命を救う事」は医療の第一目標ではないと考えます。

僕は『より良い「生」を提供すること』を一般的な目標として掲げたいと思います。救命救急だって、それを目的としてやっているのだと思っています。

内科的な病気に関して考えれば、これから、生活習慣病を代表とする慢性疾患の患者さんが増えていくと思います。この時、疾患に対する考え方、立ち位置が風邪と同じであってはなりません。

「治す」のではなく、「コントロールする」姿勢で病気と向き合わねばならないと思います。これが、僕が医療を「修飾」と考える根拠です。

このブログでも何度か紹介している

『時に癒し、しばしば支え、常になぐさむ』

という言葉に象徴される意味合いは時を超えるものだと思っています。

新病院建設について思うことを書いたら小論文になってしまった。

 現在、僕が働いている病院では新病院建設の計画が進められています。これに伴い、意見募集の知らせが送られてきました。曰く、
『新病院の建設計画に先立ち、教職員一人ひとりが夢のある意見・思いを語ることによって、職員が働きやすく、患者さんにやさしい病院作りができると考えます。 どんな病院をつくりたいですか?あなたの意見を聞かせて下さい。』
だ、そうであります。

 私たちの働くモチベーションを高めるために建築物が役割を果たしうるのでしょうか。答えは多分『イエス』なのだと思います。ただ、その度合いは、建物にまつわる物語性によって変わるのだと思います。

 一人でも多くの職員が新しい新病院について考えることは、その物語性を高めることに貢献すると思います。そこで、自分も職員の一人として、どんな新病院で働きたいと思うのか、考えてみました。

 なんか偉そうな文章になってしまいましたが、自分の中では、以前から時々書いている『医系小論文演習』のひとつだと考えています。

 新病院は今後10年以上にわたり、私たちのホームグラウンドとなります。その意味で、単に使いやすいことのみならず、職員が誇りを持って仕事をできるような建造物となれば理想的だと思います。また、増築余地が限られている現状において、今後の本学の伝統を守りつつ、社会の変化に即応しながら成長して行くことを想定することが重要と考えます。

 現在の本学大学病院の建物は、上空から眺めた時、十字の形となるように設計されています。これは、キリスト的愛とそれに基づく医療を象徴しているのだと聞きました。この設計を初めて教えていただいた時、これは大変素晴らしいことだと感じました。熱意と志を持って、働く仲間たちには同様の感情を抱いた経験のある人もいると思います。

 新病院においても、我々医療者、病院を利用する方々から見て利便性の高い設計、というだけではなく、高い志や精神性が感じられるシンボリックなものを設計思想を織り込むことができれば素晴らしいと思います。新病院建築にあたり、十字形のデザインをどこかに継承することは、本学の精神の継承を象徴するアイデアの一つだと思います。

 一方、今後の医療の変化を想定しながら、医療に求められるものを考えるには、現代医療の成し遂げたもの、課題などについて考える必要があるでしょう。

 現代医学は人間の体を各臓器に切り分け、部品化することで発展しました。これは、各臓器の機能を保持すれば、命が失われる事はないはずだというテーゼに基づきます。各臓器を部品として取り出し、各専門家が故障の原因を究明し、修理します。

 これにより治療成績は向上しました。平均寿命ものび、日本は長寿国となりました。けれど、病気を部品の故障として扱うような医療の限界が明らかとなってきています。

 全人的医療という言葉が生まれた理由がここにあると思います。医療が専門分化していた時代にはそのような言葉は必要ありませんでした。次の時代に求められるのは高い専門性と全人性の両立であると考えます。

 また、不治の病とされた「癌」は早期に発見すれば治癒可能な病気の一つとなる一方で、生活習慣病という言葉に代表される慢性疾患への対策が重要性を増しつつあります。このような観点からすれば、「医療は人の命を救うためのもの」という考え方のみに立脚した医療観は力を失って行くのではないかと考えます。

 加えて医師患者関係の変化も特筆すべき変化です。かつての親が子のためを思うようなパターナリズムの思想による医療よりも、患者さんを主人公とする考え方に基づく医療が求められるようになりました。

 このような変化の傾向は今後も続くものであると考えます。この時、医療が変わらず求められる役割は、『誕生から死に至るまで、良い生が全うされることを支援すること』であると私は思います。

 この役割を果たすためには、治療の質を上げるだけでは不十分と私は思います。

 現在、治療の質を高めるやり方として、科学的根拠に基づく実証的医療、(Evidence Based Medicine : EBM)の考え方が全盛です。しかし、何万人を対象として作られた『エビデンス』が各個人にそのまま当てはまる可能性は高くありません。エビデンスが万能でない事は明らかです。

 より良い生を全うするためには、エビデンスに基づきながらも、その人の人生という物語を尊重する姿勢が必要です。この点で医療は自然科学とは決定的に異なります。時には、医学とすら相容れないこともあるでしょう。学問的には「例外」とされるような患者さんたちまで含めていかに加療するかを考えねばなりません。

 そういった医療がこれから求められて行くのではないかと思います。

 この点から、これから、重要視されるのは医療における「敬意」だと思います。病院を訪れる人たちへの敬意のみならず、生に対する敬意です。

 ここでは建物による「敬意の表現」について話を限定します。

 病院を訪れる方々への敬意は、医療におけるサービス業的な側面ととらえることもできます。エスカレータやエレベーターの充実に始まるバリアフリー化の徹底、プライバシーへの配慮、アメニティの充実、などがそれにあたります。

 また、東日本大震災は、災害時への配慮が日頃から必要であることを私たちに改めて認識させました。災害時に訪れる患者さんについても考えておく必要があるでしょう。

 大量の患者さんが押し寄せた時に、中央待ち合いホールにトリーアジ待ちの患者さんを集めやすいようにすること、また、伝染性感染症の患者さん数多く発生した場合には、容易に講堂などのスペースに隔離できるようにするといった、スペースの確保と導線の整理が必要です。

 これは通常業務のときにも役立つに違いないと思います。

 また、停電時、電子カルテシステムを含む最小限の医療機器への電力供給を太陽光、風力発電で補う事はできないものでしょうか。特に電子カルテに関しては、現行の病院機能を維持する上で、優先度は非常に高いと考えます。

 ここまで挙げたものは、現在と近未来に望まれることですが、この他、生に対する敬意の表彰として私が掲げたいのは、病院を去る人たちへの敬意、死に対する敬意です。

 これは病院にとって利益を生み出しにくい部分だと思われます。しかし、今後の医療のあり方について考えたとき、死の問題を考えずにはいられません。

 過去30−40年の間に日本人をめぐる臨終の様相は大きく変化しました。砂原茂一著「医者と患者と病院と」によれば、1947年、病院内での死亡はわずか9.2%で、1978年には52.7%となっていたそうです。インターネットで調べてみると、2001年には8割を超える方が自宅以外でなくなっています。当然、そのほとんどが病院です。

 昔なら大往生を迎えていたかもしれないようなお年の方が、具合が悪いといって病院を受診し、入院を希望されます。私はそれを批判するつもりはありません。自宅で死を迎えることが普通だった時代から、病院で死を迎えるのが普通の時代になりました。

 今後、ご自宅で人生を終える方がどの位増えるのか、僕にはわかりません。けれども、病院で亡くなる人は必ず存在します。そのとき、病院は、当然、患者さんの人生の終焉を大切に考えるきだと思います。生を敬うということは、そういうことだと思います。

 本学には礼拝堂があります。これと類似した静かな瞑想室のようなスペースを霊安室に附属させれば、ご家族のグリーフケアの一翼を担うことができるでしょう。

 病院は、人が亡くなった時、皆が故人を想いながら敬意をもって見送るのだということを実感できるような施設であってほしいと思います。

 これは新しい発想ではありません。病院の最上階に特別室のような霊安室を持つ病院は、すでに国内に複数の先例があり、評判は良いと聞きます。

 建築やデザインが人を刺激する事があるとすれば、それは物語のきっかけとなるからだと思います。人が亡くなった時、それが次の物語の始まりに繋がれば素晴らしいと思います。

 最初に述べた通り、新病院は、今後、永きにわたって働く場所です。多くの人達のアイデアを結集し、これまでの良き伝統を継承して発展させていこうという、向上心の源となるような建物となることを願っています。

ムンテラとインフォームドコンセントは違うと思う

最近、病院機能評価というのを受けるため、我が大学病院でもイロイロな検討委員会が立ち上げられ、様々な改善に取り組んでいます。そのなかで、「ムンテラという言葉を使わないようにしよう」というのがありました。正しくは「インフォームドコンセント」や「IC(インフォームドコンセントの頭文字をとった略語)」という言葉を使うのであると指導されているとのことです。

「ムンテラ」という言葉について、ご存じない方もおられるでしょうが、医者の間で古くから使われる和製独語の省略形です。

もともとは、「口」と「治療」という意味を表す独語「mund」「therapie」をくっつけて創作した「ムントテラピー」の略とされているようです。僕はそのように先輩から教わりました。

もととなったムントテラピーという言葉は日本でもドイツでも全く使われないようですが、ムンテラは日本中で普通に用いられています。

このムンテラという言葉、アンシャンレジーム的医療を想起させるのでしょうか。

「口で治療する」とはどういうことか!
「言いくるめる」ということではないのか?
または上位者てき立場から医者が患者さんに「施しをしてあげる」ための説明という意識があるのではないか?

僕が思いつく用語としての「ムンテラ」批判は上記のようなものです。たしかにムンテラという言葉の使い方にパターナリズム的医療の名残を感じることもあるので、そこは気をつける必要があります。

でも、言葉というものはそう簡単に置き換えられるものではありません。

僕は「ムンテラ=インフォームドコンセント」ではないと思うのです。

検査や治療を行ったり臨床研究に参加していただくのに際し、患者さんに説明をし、同意していただき、文書にサインをいただくことを「インフォームドコンセントをとる」「ICをとる」と言いますが、「ムンテラをとる」とは言いません。

ムンテラという言葉には、納得した上で同意していただくという内容は含まれていないのです。

では医療を行う際、主役である患者さんの納得や同意が含まれないこの用語は必要ないのでしょうか、、、。

僕は「病状説明」という観点からこの言葉はあってよいものだと考えます。

医者が病状、病態をどのように把握し、考えているかということについて、患者さんと共通認識をもてていない場合があります。また、患者さんによっては病状を理解できていなかったり、受け入れられていない方がおられます。

このような場合、患者さんの病状をどのように考えているのか、それに対してどのような方策が望ましいと思われるのかを、説明し納得していただくことはとても大切です。

病状によっては、薬などの処方をする事なく、日常生活での生活習慣の改善で病状が快方に向かうこともあるでしょう。これは究極の非侵襲的治療だと僕は考えています。この意味で、「ムントテラピー」、「口による治療」というのは、悪い表現ではないと思います。

勿論、それだけで病気が全て良くなる訳ではありませんが、こと、慢性疾患に関していえば、このような日常管理は非常に重要です。

ムンテラという言葉をインフォームドコンセントという言葉と置き換えるという事は、このような病状説明的治療を、検査の同意文書にサインをしていただく時に使う言葉と同じ用語で表すことになってしまうと思います。

僕が違和感を感じるのはここの部分です。

ムンテラという言葉に悪しきイメージがあるので使わないように、ということであれば、別の用語を用いるようにするべきと考えます。

いい言葉だと思うんですけどねぇ、、、。

ちなみに、「インフォームドコンセント」の日本語訳はありませんが、中国語では「知情同意」と言うそうです。これも、なかなかよい漢字訳のように思います。

素人的実戦医歯薬系小論文事始 インフォームドコンセント

実戦!医歯薬系小論文講義―患者とわかり合える医者になるために (マイセレクト 受かるシリーズ) 』の第1章を読んで「インフォームドコンセント」について書いてみたのが次の文章です。

20世紀、医者患者関係は変化の必要に迫られました。いわゆるパターナリズムからパートナーイズムへの変化です。

ヒポクラテスの誓いにも、パターナリズムが認められるとおり、親が子を思うような立場と感情を持って医者が患者さんに接することによるメリットは昔から信じられてきました。けれども、その拡大解釈や悪用によって、パターナリズムの限界が露呈しました。

医師とは治療と言う名目でのみ人体に侵襲を与えることが許されている職業であるのに、第二次大戦の前後、この事を忘れた者がいたと言う事です。

その事実が大変重い事なのだと思います。

そして、「ヘルシンキ宣言」や、アメリカ病院協会による「患者の権利章典」等を経て、患者の人権を守る事の必要性が認識、確立されていきました。この過程のなかで重視されるようになったことばが「インフォームドコンセント」です。

この言葉は最初「説明と同意」などと訳されていましたが、適当な日本語がみあたらないということで、今ではカタカナがそのまま日本語に定着しました。現在では「IC」と略すこともありますが、日本語をつくることは断念されたようです。

「説明と同意」という言葉が根付かなかったのは、文字上の「説明」+「同意」というだけでなく、患者さんの人権への意識がこの言葉には必要だと考えられたからだと思います。

「説明」と「同意」だけでは漏れてしまう可能性のある人権への意識を、どう守るのかは忙しい日常臨床の中では難しい話です。

どのようにしたらそれを忘れずにいられるのか、僕が普段意識していることを一例として示したいと思います。

医療を行うにあたり、僕は大きく分けて三つの軸で考えるようにしています。このうち診療に関わるのが二つです。

一つは、1) 非侵襲的であるのか、2) 侵襲的であるのか、ということ。もう一つはA) 診断的行為であるのか、B) 治療的高家であるのか、ということです。

例えば1) A) の非侵襲的診断的行為には問診や診察、簡単な検査が含まれます。 2) A) の侵襲的診断的行為としては内視鏡検査など一定のリスクを伴う検査が含まれます。1) B)の非侵襲的治療的行為には日常生活習慣の改善や、内服薬による加療が、 2) B) の侵襲的治療的行為の代表は外科手術ということになります。

それぞれに関し、臨床研究であるか否かの境界線があります。

この境界線をこえる時、それまでとは異なる考え方の医療行為が行われることとなります。その時にそれまで以上に注意をして患者さんに納得していただく必要があると僕は思っています。その境界線をこえるかどうするか、という意思決定こそが患者さんの権利だと思うからです。

診断と治療、非侵襲と侵襲、臨床研究か否か、それぞれの境界を医者が勝手にのりこえてはいけない。

十分に達成できていないことも多々あり、反省することも多いですが、そう考えて日々の仕事をしています。


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素人的実戦医歯薬系小論文事始

 医系大学入試の小論文を自分がかいたらどうなるだろう、、、と、2年前の今頃から今年始めにかけて、『素人的医系小論文演習事始』と題して、医系小論文を書いてました。テキストは駿台予備校の『医系小論文テーマ別課題文集21世紀の医療 改訂版 (駿台受験シリーズ) 』を使いました。しばらく時間が経って、そろそろまた始めて見ようかと思います。

 今度は『実戦!医歯薬系小論文講義―患者とわかり合える医者になるために (マイセレクト 受かるシリーズ) 』をテキストとして使います。

 この本を選んだ理由は、『はじめに』で著者の先生が

『私が想定している医歯薬系の小論文対策とは、いってみれば、受験生の「内なる宇宙」づくりに励めということになる。』

『医歯薬系の小論文で過去に求められてきたようなテーマについて、また、その中で常識と前提されているような内容について、貪欲に読み、消化していけばよいのだ。そして試しに、求められた「自分の意見」をまとめあげていけばよい。』

と書かれているところに共感したからです。

 この参考書の第1講から第12講までの計12のテーマについて、(時間のある時に、またはブログの題材に困った時に)今の自分が思うところを書いてみようと思います。

 当然ですが、以前テキストにしていた『医系小論文テーマ別課題文集21世紀の医療 改訂版 (駿台受験シリーズ) 』と重なるテーマが沢山あります。

 2年前の自分と比較して、今の自分がどのような文章を書くのか、個人的にも興味があります。

 殆ど同じ(全く成長していない)だったりして。


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