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"父の遺稿"「なるがままのターミナルケア」がん治療35年の経験

岡﨑伸生 「診療と新薬」32巻8号9号別冊、医事出版社より

温故知新

最近読んだ本「僕の死に方」のはじめの方に、著者の金子哲雄さん診療を嫌がる医者たちが登場します。

治療法を求め、藁をもすがるような気持ちだったであろうに、門前払いもされたとのこと。

金子さんは深く傷つけられました。

そのことについて、具体的なコメントをするつもりはありません。「門前払いをした医者」の側からの話も聞かなくてはフェアではありませんし、金子さんが想像した、「医者が自分を門前払いした理由」にも全面的には賛成しかねるからです。

ただ、たとえ誤解があったとしても、医者の言動により、患者さんが傷ついたことは確かです。

あくまで個人的な印象ですが、一般論として、その様な局面は、かつてより増えているように思います。

その背景の一つに、医療の考え方がパターナリズムからパートナーイズムに変化してきたことがあげられると僕は思っています。

ざっくり言えば、親が子に接する様に医者が患者さんに対する、というのがパターナリズム。この時、医者も患者さんも相手を選ぶことはできません。そこから逃げることもできません。と、言うか、恐らく、発想の中にありません。それがパターナリズムの考え方。

最近は患者さんの権利が見直され、パートナーイズムによる医療が推奨されます。インフォームドコンセントなんて言うのも、その流れの一つとして理解されます。

互いに相手がパートナーであるなら、互いの立場は対等です。互いに相手を選ぶのも自由です。

元来、患者さんが医者を選ぶのは自由なはずですが、それが権利として、より保証されるようになりました。この関係を突き詰めるなら、医者の側も自分ができることの開示が大切になります。それによって患者さんが適切なパートナーを選べるようになるからです。

でもこれはネガティブな側面も持つと、僕は思います。悪く言うと逃げ道として使えるのです。

そんな側面が象徴的に現れやすいのが病名告知だと思います。

病名を告知することによって、「この病気はあなたの問題です。」「私にできるのはここまで。」と、問題を患者さんに簡単に丸投げできるようになりました。やろうと思えば。告知しない時代にはできなかったことです。多分。

ネガティブな情報を提供するのは難しいものです。何でも引き受けるのがイイとは思いませんが、他人事として丸投げするのもどうかと思います。

そう思った時、告知しなかった時代の医者たちがどう考えてがん診療にあたっていたのかを知ることは、大切な意味を持つような気がします。パターナリズムの考え方に立てば、丸投げなんてあり得ないはずです。

僕の父親は肝臓がんの診療を専門として、ターミナルケアにもかなりの力を注いでいました。

今から四半世紀以上前の話です。当時のターミナルケアは今とは全然違うものでした。

父親が医者として教育されたころは、診断技術も、治療技術も今とはぜんぜん違いました。「がん=死」というイメージが極めて明確でした。

そこでとられた方針は「がんは告知するべからず」。父は医者としてそう教育されました。

そう教育した医者には自分ががんに罹患したとき、「がんを知らない患者」になろうとした方もおられたようです。

父親はそのことに疑問を持つようになりました。そして次第に「がんは告知すべし」という考え方にかわっていきました。

その変遷は父親が生前に遺した「なるがままのターミナルケア」という手記に記されています。これは、1995年頃、雑誌「診療と新薬」に掲載されたものです。

今日、1月28日は父親の命日です。僕にとって毎年この日は、自分の来し方、行く末を考える日になっています。

自分の来し方を確認するため、久々に父親の遺稿集に目を通してみました。

そこにあったのは、「歴史」でした。でも、同時に、医療には変わらぬものがあるのだとも感じました。

そして、温故知新の意味を込め、ネット上でシェアしてもいいかもしれないと思い、今日、『”父の遺稿”「なるがままのターミナルケア」がん診療35年の経験』というカテゴリーにまとめて公開しました。一冊をそのまま公開しても読みづらいと思ったので、僕の判断で適宜分割してあります。目次はこちらです。

特に、若いドクターの参考になることがあれば、父親も喜ぶことと思います。

おわりに

 私は常々ターミナル・ケアのあり方について静かに考える時間を持ちたいと思っていましたが、日常の診療業務や臨床研究の忙しさに埋没した生活が続き、なかなか果たせませんでした。その最大の原因は単独の主治医として、臨死患者の診療に従事している事にあります。現在勤めている茨城県立中央病院に転任した時に、新しい病院の空気に早く馴染もうと病棟業務にも手を出したのでした。それには、現場から離れると、理想論に羽ばたきそうな自分のターミナル・ケア論を抑える目的もありました。

 しかし、最近では病院での管理業務が増えたため、ターミナル・ケアの実践が困難になったこと、区切りの良い60歳になったことを契機に、漸次病棟業務から手を引くことにしました。その前に過去の経験を断片的にでも記載しておこうと始めたのがこの小論文の出発点です。不消化のままの経験を、拙い文章で綴る事になってしまいました。

 振り返って見ますと私のターミナル・ケアは、試行錯誤の繰り返しでした。多忙な毎日は、日常の診療経験から一般論を演繹できない自分の無能力さにも原因があったのかもしれません。しかし、ターミナル・ケアは私を捉えてはなさない力を持っていました。ターミナル・ケアは、日常の診療業務の中に医療の理想を求めることや、自分の過去の経験を美化しながら漸進する医療の実践を許してくれたからです。肉体的・精神的に極限に近い生活の毎日でしたが、心の安らぎを覚える自己満足の瞬間があったのです。これまで私を支えて下さった、多くの患者さんとそのご家族、諸先生、看護婦さんや病院関係者、およびわが家族にも心からの謝意を捧げたいと存じます。有り難うございました。今後とも医療の本道をそれぬようご指導下さいますようお願いいたします。

 最後になりましたが、この小冊子は、医事出版社会長小田木正男氏と編集係竹下充氏のお勧めにより、医学雑誌「診療と新薬32巻8号、および9号」に掲載された論文の別冊を製本したものです。気恥ずかしさを感じますが、一つのマイル・ストンになりました。ご高配に感謝いたします。

1995年12月

茨城県立中央病院内科
岡崎伸生

8.これからのターミナル・ケア

 私は1992年10月茨城県立中央病院に移った。その年の9月にインフォームド・コンセントに関する面接調査を計画し、予備調査後に調査用紙を完成させ、国立がんセンター中央病院の倫理委員会に計画書と調査用紙を提出していた。当然国立がんセンター病院におけるこの研究は中止することになったが、インフォームド・コンセントに関する意識に地域差があるか否かを検討する最良の機会と考え、翌年に国立がんセンター中央病院で行った予備調査とほぼ同じ面接調査を茨城県立中央病院でも行った。

 初めて外来を訪れた患者さんに対して、病歴聴取、診察と検査予定の説明の後、面接調査の主旨を説明し協力を求めた。面接調査を辞退した患者さんは、茨城県立中央病院の1例のみであった。表11はその調査結果の一部で、「もしがんならば病名を正しく知りたいと思いますか」との質問に対する回答である。希望しないと答えたのは、国立がんセンター中央病院の1例のみであった。その他、治るか、治らないか等、予後の説明に関する希望も質問しているが、知りたくないと答えた患者さんは、両病院とも10%以下であった。国立がんセンター中央病院は東京の銀座、茨城県立中央病院は茨城県の中央部、農村地帯の病院である。がん告知を含むインフォームド・コンセントに関する認識には、それぞれこれら両病院を訪れた患者間に差のないことを示している。

 しかし、ここ3年間診療に従事していて、国立がんセンター病院と茨城県立中央病院の患者さんとの間には少なからず差のあることを知った。東京でも核家族を診ていたが、茨城では都会に核家族を排出して残った老人の核家族を診る機会が多くなった。患者さんの平均年齢も15歳前後高齢である。時には一人暮らしのこともある。

 一般に高齢の患者さんは家族に依存し、家族は自分が全権をもった責任者としてふるまう。そして過度に保護的になり、時として患者さんにも基本的人権のあることを忘れてしまう。すなわち、家族がパターナリズムの世界に固執し、必要な医療にも抵抗する例が少なくないと感じる。

 今はこのような家族と協調しながら、患者さんを主軸とする医療を展開する方法論について検討しなければならないと考えている。

*岡崎伸生、他:外来初診患者を対象としたインフォームド・コンセントに関する面接調査、都会と農村地帯の患者との比較、茨城県病医誌、12:116、1994.

表11 がんの告知について
           症例数 希望する     希望しない
国立がんセンター病院 36  35( 97%)  1(3%)
茨城県立中央病院   36  32(100%) 
合計         68  67( 99%)  1(1%)
設問:がんならば正しい病名を知りたいと思いますか

7.国立がんセンター総長の死 ●石川七郎先生の死

 中原和郎先生の跡を継いで第6代の国立がんセンター総長に就任されたのは、肺外科を専門とされる石川七郎先生であった。国立がんセンター病院に奉職して間もなく、当時副院長でおられた石川七郎先生から「おい肝臓、元気か」と声をかけられた。おそらく名前を思い出せなくて咄嗟にでたのであろうが、大変に親しみを覚えた。それから私のことを「おい肝臓」と呼ぶことがしばらく習慣となった。

 1984年に引退して名誉総長となられた石川七郎先生は、その翌年に肝細胞がんになられた。肺結核の手術の時に受けた輸血が原因で非A非B型の肝硬変症になり、そこに肝細胞がんができたのであった。合併している肝硬変症が重篤であったため手術不能と診断された。先生ご自身は、手術がベストの治療法と信じておられたので、後輩の肝臓外科医である長谷川博先生に身を任せようとまず考えられたのであった。末舛恵一先生の勧めで肝動脈塞栓術を受けられた後、主として内科的に経過を見ることになった。

 石川七郎先生には病気のことはすべて正確にお話ししてあった。先生は肝細胞がんの治療については、いろいろ論文もお読みになっておられるようであった。肝細胞がんの制がん剤療法や放射線療法の現状についての質問を受けたことを記憶している。また、かつて先生のご紹介で治療した肝細胞がんの患者さんの件も話題となった。スライドにしていた資料を名誉総長室にお届けしたこともあった。何時も先生のご質問は直接的であった。「ほんとに効くの」、「副作用はないの」、「効果の判定は何時するの」、「効果の判定は何でするの」、「末期の人は耐えられないのじゃないの」。医療における最終意志決定者は自分と了解しておられるようであった。

 美代子夫人の観察によると、ターミナル・ケアに関心をもたれたのは総長になられてからだという。先生は、総長時代の1981年に厚生省がん研究助成金の研究課題に「晩期がん患者の精神的および肉体的苦痛緩和(terminal care)に関する研究」を取り上げられた。この研究報告会で、終末期がん患者の除痛のために脳の手術をして効果があったとの研究発表に、本末転倒だと激しい口調で発言された。先生のターミナル・ケアに関する関心の深さを示すエピソードであった。

 私は先生のがん告知についての考えを聞いた記憶はない。塚本憲甫先生の肝転移の告知に反対された石川先生も、少なくともご自分が肝細胞がんになられた頃には、ケースバイケースではあるが可能な限り本人に告知すべきという考えを持っておられたのではないかと推測する。ご自分の件では、がん告知は当然のプロセスと思っておられた。検査成績もご自分で確認された。最後のCT検査の時などは、撮影終了後CTの操作室に「結果を教えてよ」と入ってこられた。病変は明らかに進化していた。「そうだろうな、AFPが高くなっているんだもの」と平然としておられた。そして、部屋を出られる時「会計伝票は」時かれた。私は気を利かしたつもりで「伝票は私が処理するから」と担当者に話しておいたが、石川先生は「そのくらい自分でするよ」と会計の窓口の列に加わられた。

 先生は肝細胞がんになってからも仕事を続けられた。がんセンター内の研究会にも出席された。ターミナル・ケア研究会に出席されたこともある。美代子夫人と共にホスピス設立運動にも積極的に参画しておられたという。この間、「よりよい死とは…」とのタイトルで小論文を書いておられる。先生のターミナル・ケアに関する思想を示す部分を引用させていただく。

 「癌が進んで治療の手段がない、とわかった人には、対症的な治療(とくに鎮痛)はやるが、積極的な(化学療法または放射線治療、中心静脈栄養など)は行わない。」

 「治療を続けるか、全く自然経過にまかせるかは、患者(家人)との了解で決めるべきである。」

 「意識朦朧となった人に化療・放療を続けるとか、死ぬまで中心静脈栄養をやったというのは、患者に対する冒涜であろう。」

 「ケアの実際を考えると、末期患者は、不安、癌と知った時の怒り、抑うつ、あきらめに悩むことが多い。さらに、これらの精神症状だけでなく、その生き方、死に方に対する考え方、特に家族との情趣など、精神は揺れ動いているので…」

と、人対人のケアの重要性を説いておられる。この文章は、がん告知は当然の前提条件として、その後のケアの必要性を記載しているのである。

 「その死に際まで、採血や検査をしたり、人工呼吸器や心マッサージをしたりする愚はやめたいと思う。」

*石川七郎:よりよい死とは…、医療’85、1:20、1985.

 この論文は先生の追憶集『無影灯のもとに、元国立がんセンター名誉総長石川七郎先生を偲んで』で知った。私には、「無意味なことは要らないよ」、「最後は家でと思っている、何かあったらよろしく」とB5の無地の便箋に几帳面な字で地図を書いて下さった。今も大事にしている。

 1979年に弟さんが肝細胞がんになられた時にも、手術が無理ならできる限り家で、と主張された。弟さんは、亡くなる前日に、歯科治療を受けて帰宅して間もなく、腹痛発作に見舞われて緊急入院、翌朝に亡くなられた。肝細胞がん破裂による腹腔内出血であった。

 先生は正月をご家族と共にハワイで過ごしたり、ホスピスの設立運動を続けたり、表面的には穏やかに毎日を送っておられるようであったが、論文にも書いておられるように、精神的には必ずしも平坦ではなかった。親しい鎌倉の友人が急死された時などは、「ぼくも急死すればと思うことがあるよ」といわれた。

 ご家族の問題で、精神的に最も衝撃を受けられたと感じたのは、妹さんが肝細胞がんの疑いで来院された時のことであった。ご自分で外来受診の手続きをし、診察室にも入ってこられた。そして超音波のモニターを注視しておられたが、部屋を出る時「HCCだな、ぼくに考えさせてよ」といわれた。

 石川先生は1986年6月12日に自宅で吐血をして緊急入院された。私は甲府で行われた日本肝臓学会総会に出席していた。急いで病院に帰ると、止血をするために食道にチューブが挿入された先生は睡眠しておられた。来院時には血圧を測定した山口健先生に測定値を質問し、「その血圧では死ねねーな」と冗談をいわれたという。夜半に覚醒された先生はチューブの抜去を希望された。翌13日の早朝に恐る恐るチューブを抜去したが、幸い再出血はなかった。その後、美代子夫人の強い希望もあり16日に退院された。吐血後で意識は混濁しておられた。そして、先生の理想とされる在宅での心のこもった家族のケアを受けられた。医療面のケアには娘婿である東海大学外科田島知郎先生(当時助教授)があたられた。一時期、意識を取り戻した先生は、「これが本当のターミナル・ケアだね、ありがとう、ありがとう」と涙を流されたという。

*田島知郎:石川論文「よりよい死とは…」に寄せて。看護技術、32:1954、1986.

 ターミナル・ケアの重要性を認識しておられた石川七郎先生は、家族に支えられたターミナル・ケアのあり方の一つをご自分で示された。美代子夫人との心の交流の産物でもある。

 自宅で亡くなられた先生のご遺体は国立がんセンター病院に運ばれ、解剖された。

*石川先生の本出版記念会企画、石川美代子・石川光一編集発行:無影燈のもとに 元国立がんセンター名誉総長石川七郎を偲んで、1989.

7.国立がんセンター総長の死 ●塚本憲甫先生の死

 最近、塚本哲也氏から文春文庫『ガンと戦った昭和史、塚本憲甫と医師たち』をお送りいただいた。1981年に出版された同名の著書の文庫版である。服部信先生を補佐し塚本先生の終末期医療の場に同席させていただいた時のことが昨日のことのように思い出された。塚本哲也氏は国立がんセンター第4代総長塚本憲甫先生の娘婿で、そのお人柄のにじみ出た文章も懐かしかった。

 塚本先生は、私が国立がんセンター病院に奉職した1969年4月には病院長であった。その年の5月の終わりか6月の上旬のことと思うが、腹腔鏡検査が終わって手術室を歩いていると塚本先生に声をかけられて恐縮したことがあった。「君ゴルフを始めたんだって」と。当時国立がんセンター病院にいた大学の同級生が歓迎ゴルフコンペを開いてくれたことが聞こえたようだった。その場に居合わせた先輩医師たちは、塚本先生はこれで最下位脱出、ブービー賞確実と思って喜んでおられるのではないか、と陰口をたたいて喜んでいた。好感を持って受け入れられている院長だな、と親しみを感じた。残念ながら私のゴルフはそれが最初で最後であった。

 これも手術室で腹腔鏡検査をしている時のことである。「服部さん、私にも一寸見せて下さいよ」と塚本先生が入ってこられた。服部先生の説明を受けた後、腹腔鏡を手にしてすぐ塚本先生は「これがligamentum rotundumですか」と質問されたのを聞いて驚いた。ligamentum rotundumは肝円靱帯のラテン語で、玄人のする質問と感じたのであった。放射線治療を専門とされる塚本先生が、人体各部位の解剖に通じていることは当然のこととは思うが、そのオリエンテーションの良さは抜群であると感じた。治療効果をできうる限り客観的に捉えながら放射線療法を実行しておられると聞いていた。カルテにはがん病巣のスケッチに加え、病理組織検査をした部位などが克明に記載されていたという。先生の医療に対する科学的な姿勢に触れたような気がした。

 塚本憲甫先生は総長在職中の1973年12月3日、胃がんの手術を受けられた。胃がんという病名は知っておられたが、開腹手術時には既に肝臓と肺に転移のあったことは伏せられていた。翌年の4月1日の再入院は、肝転移巣が悪化し、終末期に入ったと判断されたためであった。先生には慢性肝炎と説明されていた。

 入院されて間もなく、服部先生と回診に行くと、先生はいつものように診察しやすいように腹部を出された。そこには大きくなった肝臓の辺縁がマジックインキで黒々と書かれていた。「肝臓の大きさがわかるように書いておいたよ、クックックッ」と小さな声で屈託なく笑われた。先生はきわどい冗談をいって「クックックッ」と笑われる癖があった。その後に知ったことだが、先生が心を許しておられた食道外科の飯塚紀文先生には「服部君にこの肝臓転移が治せるかね」と冗談をいわれたという。塚本先生は、ご自分の病気を正確に知っておられたのであった。当時、転移性肝がんに有効な治療法はなかった。

*塚本憲甫追憶集刊行会:塚本憲甫—塚本憲甫追憶集、1975.

 服部先生は「日曜日には点滴に伺いますから」と、終末には毎週外泊を勧められた。東京国立第二病院の敷地の中にある宿舎に住んでいた服部先生と私は、日曜日になると上馬の塚本先生宅に点滴に出かけた。ある時、点滴針を刺し終わった私に「3月末にね、朝日新聞の天声人語氏ががんの告知について電話をかけてきてね」と声をかけられた。そして「がんの告知の問題は基本的にはケースバイケースで処理しなければいけないが、告知しない方が当人の幸せだと思う」という内容のことを話された。

 先生は、控え目ではあるが「がんの告知」には反対であった。先にも触れたように、ご自分の病気についてはほぼ正確に把握されていて、隠されていることを冗談の材料にしておられた。しかし、病気の進行状態やその時々の病態について直接的な質問をされることはなかった。がん告知に反対だからこそ、この問題で主治医を困らせることを避けられたのではないかと思った。

 ただ入院されてから何回か「岡崎君、あれ黄疸尿?」と蓄尿瓶に溜めてある尿について質問を受けた。しかし、誰の目にもわかるような黄疸尿になってからは、その質問はやんだ。そして、6月2日に銀座教会の鵜飼勇牧師から洗礼を受けられた。黄疸が転移性肝がんの重要な予後因子であることを知っておられた先生は、黄疸の出現の有無でご自分の死期を予測しようとされていたのではないかと思った。その頃まとめたデータによると、転移性肝がんで黄疸が出始めたら1カ月以内に死亡する可能性が高かった。

*岡崎伸生、他:転移性癌による肝外閉塞性黄疸、肝臓、12:248、1971.

先生は1974年6月6日の午前中に吐血をされた。服部先生は外来診察中で私より少し遅れて病室に来られた。「服部君がなかなか来てくれないので血を吐いたよ」と小さい声でいわれた。私にはそう聞こえた。その後に「クックックッ」と笑われたのであろうが、声にはならなかった。私には先生の最期の冗談に聞こえた。先生は翌朝6時32分に亡くなられた。5月7日から東京国立第二病院に入院されていた年子夫人は、約2週間後の6月20日に先生の後を追うように他界された。がん告知に反対意見を持っておられた先生は、がんを知らない患者になろうと努力された。

*塚本哲也:ガンと戦った昭和史、塚本憲甫と医師たち、文春文庫、1981.

7.国立がんセンター総長の死

 代々の国立がんセンター総長は、がん死される方が多い。私は第4代総長と、第6代総長の終末期医療にタッチさせていただき、数々の貴重な教えを受けた。

6.患者さんの死から学ぶ 6

 画家のSさんは肝細胞がんの疑いで転入院してこられた。高熱を出し、敗血症の合併が疑われていた。Sさんの入院された週の土曜日に、私たちは友人の送別会をかねた一泊の釣り旅行を計画していた。Sさんの状態は必ずしも良くないとは思っていたが、それまで友人が何回か計画してくれた年1回のレクリエーションには、患者さんの急変や米国から転入院してくる患者さんを受け取る手続き上の問題などで参加していなかったので、送別会だからと強行した。それに、私が幹事で目的地の地理には詳しかった。

 翌日の早朝宿泊中の保養施設に病院から電話があった。深夜勤務の看護婦からで、Sさんが高熱を出し、付き添いの奥さんが不安がっておられること、当直医が処置してくれたので大丈夫であろうとの報告であった。私はこのままレクリエーションを続けるか、病院に帰るか迷った。結局、釣りの時間を半分にして帰ることにしたが、Sさんのことよりも、自分の立てた計画を優先したのであった。昼食後病院に電話を入れ、Sさんの比較的安定していることを確認して帰途についた。しかし、海岸線沿いの道路は海水浴客のために混雑し、病院に着いた時には午後6時を過ぎていた。午前中の釣りと、快晴の海岸線を車で走ったため、顔や腕は真っ赤に日に焼けてしまった。

 病棟に着いた時には、Sさんは死亡されていた。当直医が家族に病状の説明と剖検の依頼をしているところであった。私も加わったが、悪いことをしたとの感じはぬぐい去れなかった。もちろん剖検の希望はかなえられなかった。家族、特に奥さんは主治医に看取られないでSさんが亡くなられたことの無念さを繰り返し主張された。

 親の死、配偶者の死、子どもの死、兄弟の死などそれぞれ家族にとっては深刻なはじめての体験である。家族が身内の死を受け入れるためには、十分な医療を受けてきたことの他に、自らも満足のできる看病をした事実が必要なのである。私は、レクリエーションに出かける後ろめたさもあり、病状の説明が不十分となったこと、主治医が不在になることを話していなかったことが、奥さんを混乱させる原因となったと反省した。

 さらには臨終に慣れてきた自分に危険を感じた。

6.患者さんの死から学ぶ 5

胃がんの肝転移で入院された81歳のHさんは、長い間アメリカで生活をされていた。入院後病名に関する質問はされなかったが、今まで生きてきた人生に満足していること、この病気から解放されたとしても、これまで以上の人生を送ることはできないと、積極的な治療を婉曲に拒否された。

 家族にとっては、大切な誇りとするおじいさんだった。その強い要望により制がん剤療法が行われた。結局治療は効果なしと判定された。今振り返ると、患者さん本人の基本的人権を無視した医療行為ではなかったかと反省させられる。

 その後、高校生の時の担任の川野辺正直先生が何かの折りに「日一日を大切に生き、成長の極に死を迎えることができればすばらしい」と目を輝かせて語られたことを思い出し、Hさんは私にとっては忘れられない存在となった。

6.患者さんの死から学ぶ 4

65歳のKさんは、北海道で漁師をしておられた。成功した子供さんに呼ばれて千葉市で生活していた。家族の強い希望で病名は伏せられていた。子供さんにすべてをまかせ、自分から病状を聞くこともない控え目な老人であった。休日にはよく子供さんたちが集まり、時には外泊して温泉にも行っていた。いよいよ重症となった時のことであった。私が病室を訪れている時に、子供さんの一人が「もうすぐ良くなるから頑張ってね」と声をかけた。するとKさんは「もう駄目だよ、こんなになって生き返った人を見たことがない」と答えた。冷静に過去の経験から自分を見つめ、死の到来を悟っていたのであろう。死を自然現象ととらえ、その自然の流れのなかにいる自分を主張しているようであった。厳かな空気が漂っていると感じた。

6.患者さんの死から学ぶ 3

食品会社の会長のHさんは喉頭がんと肝臓がんの手術を受けた。結局肝臓がんの再発のために末期を迎えることになった。肝臓がんの診断に関与したのは私で、手術が最良の治療であろうと外科に紹介した。手術は成功し仕事に復帰することができたが、結局再発し、終末期には再び私が主治医となった。病室の関係で、他の病院に入院しながら空きベッド待ちをされた。国立がんセンターに転入院されて間もなく私は病室に呼ばれ、「長い間お世話になりました」と最後の挨拶を受けた。入院後の病状の説明前であった。Hさんは、自分の経験から死期が近づきつつあることを確信しておられる様子であった。その後、親族や会社の関係者を病室に呼び、合掌しながら一人一人にお礼の言葉を述べられたという。お孫さんに囲まれた76歳、静かな死であった。

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