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この週末はゆっくりすごそうと思います。

 最近気づいたことがあります。人との会話についてのことです。

 おそらく、今、僕の生活において、会話のほとんどは、会議か、診療行為における患者さんとの会話で占められています。 この会話の特徴は、何かについて議論をし、次なる方向性について結論を出そうとするところにあります。相手も同様の目的意識を共有しています。

 そんな会話ばかりを毎日しているせいでしょうか、最近「雑談」が苦手になってきたような気がします。 「雑談」も会話ですから、言葉のキャッチボールがあります。でもそこに「会議」のような目的意識はありません。

 そんなとき、方向性のない会話に戸惑いを感じることがあるのです。 話しているうちに話題がずれていくこともあるでしょう。でも僕は前の話の結論をつけたくて、すごく納得いかない感じをもっていたりします。そこに固執するあまり話の流れに乗れなかったりします。

 そんな自分の最近の傾向に気づいたとき、いつの間にか、「なぜ雑談をすることができないのか。」「それを改善するためのストラテジーは?」なんてことを考えていました。こうなるともう、職業病のような気がします。 そして、せめてプライベートくらいは成果主義におちいることなく、ゆったりと時間を過ごそうと思ったのでした。

 

それではみなさま、良い週末をお過ごしください。

時は金なり

50年くらい前、なんにもわからなかった。
40年くらい前、楽しいとか、ツライとかっていうことがなんとなくわかってきた気がする。
30年くらい前、大した努力をしなくても、自然に進歩できるような気がしていたような気がする。
25年くらい前、自然には進歩できない気がしてきた。でも、頑張る環境にさえ身を置いていれば、自然に進歩できるような気がしていた。
20年くらい前、自分の能力のなさを、改めて実感した。
歩みがのろい。ウサギとカメに例えれば、自分はカメだな、と。
ウサギにはなれそうもないな、と。
でも、努力を続けることだけはできそうな気がしていた。
10年くらい前、地道な努力はまだできそうな気がしていた。ただ、時間が短く感じられるようになってきた。
そして今。
忙しさはこれまでで一番だと思う。ありがたいことに、周りからいろいろなことをもとめられるようになってきた(と思う)。

ただ、今求められているものは、自分が今まで求めてきたものとちょっと違う気もする。まぁ、それはそれでイイと思うことにしている。
何と言っても、求められるだけありがたい。それに自分のやってきたこととは違うことをすることで、自分も進歩できそうな気がする。今までやってきたことにプラスできるならそれは自分のオリジナリティになるだろう。
年齢を感じることもあるけれど、伸びしろはまだあると信じたい。何しろ「伸行」というありがたい名前を親からいただいたのだ。
問題は時の流れがすごく速いこと。今、自分史上最速。

僕はもうすぐ生まれて半世紀になる。
これから半世紀生きることは難しいかもしれない。このまま時の流れが加速するとなれば、ことによるとあっという間だ。でも、できるだけ長い間、登り続けたいと思う。
焦るわけではないが、やりたいことはいっぱいある(ような気がする)。時間は大切だと思う。
僕はカメだ。
今はウサギになりたいとも思わない。
ただ、ガッツのあるカメになりたい。
それにならなれる気がする。

三種類のダイエット

 外来診療などで時々話していることですが、、、、僕が思うに、ダイエットには大きく分けて三つの種類があると思います。

 一つはアスリートのダイエットです。これは試合などに、試合などに焦点を当て、ここで最高のパフォーマンスを発揮できるように、食事や体重を含む体調管理をおこない、筋力などを増強するための負荷をかけていくものです。ここではストイックな食事管理と負荷の高い運動と分かちがたく結びついています。トータルの栄養バランスはややプラスに傾いているだろうと想像しています基本的にはパフォーマンス向上が目的なので、筋肉がつくことはあっても、体脂肪や余分な「お肉」がつくことはありません。でも、このダイエットで体重管理を一人でやっていくのは一般的には難しいと思います。

 もう一つは一つは美容のためのダイエットです。このダイエットは、短期間に(できれば楽して)一定の体重減少を目指すものです。一年中話題となりますが、「夏に向けて」とか、季節などが動機になることが多いような気がします。多くの場合、とりあえず痩せればいいので、数少ない食品に依存するダイエットや、記録することで意識を高めようとするものなど、イロイロな手段が存在します。最近流行りなのは炭水化物を少なくするものでしょうか。これは腎臓や肝臓に障害のない方には良い方法かもしれません。

 また、最近流行りの、ぽっちゃりお腹が引き締まった体に変身するコマーシャルのダイエットは上記二つを上手に組み合わせたもののような気がします。

 そして最後が健康のためのダイエットです。こちらは上記二つとは大きく異なると、僕は考えています。なぜかというと、短期間のコントロールではなく、健康寿命を意識した、長期のコントロールを目指したものだからです。2ヶ月で何キロ痩せたとしても、それだけでその人の「命の長さ」が変わるわけではありません。体重を一つの目安として、食習慣、運動習慣を中心とした日常生活習慣を何年も続けて初めて違いが明らかになるという性質のものだと思います。ですから、「今年の夏に向けて」なんていうダイエットは、ここでは意味をなしません。

 先日、肝臓病の栄養指導を積極的に行っている某大学のドクターと、管理栄養士の方にご講演いただきました。そちらの病院では、栄養指導を受けた群と受けなかった群で予後曲線を描いたら優位に栄養指導を受けた群での生存率が高くなった、なんていうデータも拝見しました。発表した先生自ら言っておられましたが、この結果をもとに「栄養指導が寿命を延ばしました」と結論付けることはできません。

 それは様々なファクターが関与していると思われるからです。栄養指導をうけた患者さんがたは、もともと具合の良い人たちだった可能性もあります。栄養指導をうける患者さんは健康への意識が高く、栄養指導をうける以外のことをたくさんやっている可能性もあります。そのどれかが効果を上げているのであって、栄養指導はあまり関与していないのかもしれません。

 でも、栄養指導のメリットも間違いなく存在します。食べ物には、体に良い食べ物と、体を害する食べ物があります。良いと思われる物でも過剰摂取は有害となることもあります。病気をお持ちのかたにとっては、必要な食品は、疾患によって異なることがあります。だから、テレビ、マスコミで流布されている様々な情報は、その患者さん個人には当てはまらないこともよくあります。

 結果として、栄養管理をただ、「ちゃんと」やっているつもりでも、第三者、プロの目から評価をしたら不十分であったり、間違いであったり、ということも十分にあり得ます。また、自分一人で考えてやるよりも、プロの栄養士と相談し、語りあいながら栄養管理をおこなうことで、長期にわたる管理をしやすくなるだろうと思います。

 ここまで書いて思いました。僕も栄養指導を受けてみようかしらん、、、。

それでも日本人は戦争を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

4年位前に一度読んだのですが、改めて読み直しました。

とても内容の濃い本だと思います。

大学の先生が中学生、高校生に講義した5日間を一冊にまとめたものです。歴史に詳しくなくてもわかりやすく、語りかけるような口調で様々な視点からの歴史が語られます。

読んでいて改めて思ったのは、為政者が戦争をしたくて戦争を叫んでも、おそらく戦争にはならない。でも、自分たち(の国)を守るためには他に選択肢がないという前提で話をすると、戦争することに説得力がでてきてしまう、ということです。

でも、その前提は疑ってかかる必要があるように思います。

戦争になるとき、双方とも、正義は我にあり、と思っているはずです。米国が第一次世界大戦に参戦する際のスローガンは「デモクラシーが栄える世界にするための戦争」「戦争をなくすための戦争」であり、対するドイツ・オーストリア側は「民族的存立を防衛するための戦争」だったそうです。

(こじつけであろうとも)外に向かっては戦争を正当化するロジックが語られます。それが何かの理由で説得力を持つとき、世の中は動き出すようです。

一方で、昭和の始めの日本に「日本は戦争をやる資格のない国だ」と断じた軍人がいたそうです。水野廣徳という人。彼のロジックは以下のようなものでした。

日本が島国で領土的な安全が滅多な理由で脅かされることがないならば、日本の国家としての不安材料は経済的な不安だけだろう。外国との通商関係の維持が日本の国家としての生命線であるはず。ならば、それは他国に対して日本が国際的非理不法を行わなければ保証される。日本は武力戦には勝てても、持久戦、経済戦には絶対に勝てない。ということは、日本は戦争する資格がない。

現代にそのまま当てはめることはできないかもしれません。でも逆に当時の日本で、軍人の立場で、こんなことを考えて文章を発表するなんて、なんと腹の据わったことか、と思いました。

こういったことは、多面的に見ること、性根を据えて議論をすることが大切だと思います。

言語化

 「はじめに言葉ありき」という有名な「言葉」があります。その深い意味を語る資格は僕にはありませんが、最近、言葉にすることの大切さを改めて感じます。

 みんなが同じ経験を同時にすることはできません。でも、それを共有できれば効率的に学ぶことができます。チームで仕事をするときには、この「経験の共有」が決定的に重要な要件となることもあります。共有することで集合知が広がり、議論が深まります。

 経験を共有するためには、それが情報化される必要があります。情報化には様々な手法があると思います。絵、写真、動画、文書などなど。音楽だってその役割を担うことがでるでしょう。

 でも、仕事の現場では通常用いられる手段は言語です。しかも、測定可能な言語化がより有用です。経験や情報を可能な限り測定可能なかたちで言語化することによって過去と現在を比較し、評価することが可能になります。それにより(近い)未来を予測することが可能になるのだと思います。

(音楽で情報共有する職場は想像しにくいですが、そういうカルチャーがあったら楽しいかもしれないと思います。)

禁酒

8月から訳あって、禁酒を始めました。数年前にも一度やりましたが、今回も同様の理由です。「願掛け」というやつです。
「願掛け」は辞書によると
「神仏に願いをかけること。その成就のため,百度参りとか断ち物をするといった一定の行為を自分に課すのが通例。」
となっていました。
僕は、日頃から信心深い訳ではなく、「困った時の神頼み」というほど困っている訳でもありません。自分に何かを課すことは、「願い」を、常に、心のどこかにつなぎとめておくための手段だろうと理解しています。
すると「一定の行為」が、あまりに辛いと絶対に続きません。手段であったはずの「行為」が目的になってしまいそうです。
「毎日ジョギング」とかも(ちょっとだけ)考えましたが、上記を理由に却下。
「ダイエット」は、願掛けの前からやってるし、今ちょっと停滞気味で、失敗したら願掛けも失敗しそうで困るし、そもそも願掛けに「ダイエット」を使うなどということは、動機が不純な気がするのでこれも却下。
成功しそうで、害もなく(いや、むしろメタボの観点からは有益でさある)、継続も容易、といった観点から、「禁酒」が選ばれることになりました。
この考察は前回の「禁酒」の時と大きく変わりません。進歩がないと言えばそれまでですが、やっぱりジョギングを自分に課すのはツライかなぁ、、、。
禁酒については、約一週間たちましたが、今のところ、ツライということはありません。ちょっと口さみしいと思う瞬間はありますが。
同席されている方がお酒を飲む席でも断ることができました。(「偉いぞ、俺。」と、心のなかで自分を褒めてたりします。) 半年くらいなら十分いけそうな気がします。
自己満足にすぎませんが、これによって、願が成就してほしいと思うことと真面目に向き合えるような気がしています。
そして、不純だとは言いながら、最近、BMI 23 あたりで停滞気味のダイエットも一緒にうまくいくといいな、、、と期待したりしています。実際のところ。

駄文を書いていて思うこと

 駄文を書き連ねるにもそれなりに工夫をしたり推敲をしたりしているものです。そんな時に思うのは、「が」はすごく便利な言葉です。同時に文章をつまらなくする危険な言葉のような気がします。

 助詞として目的格と主格のどちらにも使えます。特に、短くて構造が単純な文章ではこの傾向が強そうに思います。

 僕が水を欲しいと思う時、強調したいところだけを抜き出して

①「僕が欲しい。」

②「水が欲しい。」

と言うのは、どちらもオーケーです。

「水を欲しい。」

でも成り立ちますが、やや不自然な感じがします。

「水をください。」

では「を」を「が」に置換することはできません。置換できるときとそうでない時がありそうです。「は」と「が」も同様のことが言えると思います。

 「を」は目的格を表す場合にしか使えませんから、この場合「を」を積極的に使い、同様に、主格を表す場合に「は」を積極的に使って「が」を温存しておくと、後の表現に幅や余裕が出てくるように思います。

 けれど、世の中の使われ方を見ていると、せっかくどちらでも使えるのに、「が」を安易に使うことが多いように思います。「を」や「は」を使うには、前後の言葉たちをじっくり考える必要が出てくるので、「が」で済ませてしまうと楽なのでしょう。

 文章の中心的内容となる名詞が決まった時、うしろで叙述する助詞の工夫で、文章に雰囲気を加えることができるような気がしています。

自転車修理

 先日、職場から自転車で帰る時、いい調子で走っていたら、前輪から「プシューッ」と音がして、タイヤがパンクしてしまいました。自宅まで数キロあったので、そこから自宅までパンクした自転車をこいだり、トロトロと歩いたりしながらいつもの倍以上の時間をかけて帰る羽目になりました。
 週末にタイヤを交換した時、自店車屋さんで原因を尋ねたところ「寿命ですね。」との返事。
何キロくらい走ったのかわかりませんが、確かにタイヤの溝がほとんど擦り切れていました。考えてみれば、そんなグリップもきかなそうなタイヤで走っているだけで危険です。次からはもっと早めにタイヤ交換をしなければいけないと思います。
 考えてみれば、週1〜3回程度の自転車通勤を始めてから、そろそろほぼ10年になります。チェーンが外れるくらいならいいですが、ペダルが割れたり、パンクしたり、車輪のフレームが歪んでしまったこともありました。そんなことがあると、目的地まですごく時間をかけて到達せねばなりません。自転車屋さんに修理に行かねばならないような故障は、2−3年に一回以上の頻度になりそうです。これは意外に多い気がします。
 自転車には車のような車検がないので、定期的な自転車の整備に、もうすこし気を使わねばならないと改めて思いました。

再開

たいへん、たいへんご無沙汰しております。毎日暑いですね。

ブログも書かず、その分何かをしたということもなく、自分に大した進歩の実感がないままに8月になってしまいました。日々の忙しさにかまけ、一年の3分の2が終わってしまいます。
7月にあった某学会学術集会の事務局をしていたので、それまで、、、と思って仕事をしていましたが、それが終わっても楽になりません。
忙しいことを理由にしていたら、だんだん筆が遠のいてしましました。すると最近、何人かのかたから「病気になったのかと思った」と言われてしまいました。いや大変申し訳ありませんでした。
申し訳ないだけなら良いのですが、別の複数の方からは、「最近目つきが厳しい」と指摘を受けたりして、自分のキャパシティの少なさを実感すると同時に、このままだとヤバイな、、、という感じが出てきました。余裕がなさすぎるようです。

じっと手を見る、、、なんてヒマもないのですが、気分転換にでもなるように、数行でもいいのでブログを再開してみようと思いました。
いつまで続くかわかりませんが、また、よろしくお願いします。今日は会議が少ないのでそれ以外の仕事を進めたいです。

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